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山代で湯治 ~ 2024年9月~


高校の同窓会に絡めて両親を山代温泉に連れて行きました。昨年は和倉に行きましたが年初の能登地震の爪痕は大きく、未だ殆どの旅館は再開の目途がたっていません。仕事でこれまで定期的に福島県浜通りを訪問してきたので、復興の過程を見聞きする機会もそれなりに有りました。過疎地域の災害はただでさえ再建の担い手が少なく難航を極めますが、それでも住み続けたい、或いは新たに住んでみたいと思う理由は、お金の問題とは別にその町の持つ魅力即ち文化や風土、歴史みたいなものも重要な要素だと思います。自分には時間と旅費くらいは有るので、極力時間を割いて見聞きして感じた事を書いていきたいと思います。宿の近くには、北大路魯山人が半年余り住んでいた家が“寓居跡”として公開されてました。


魯山人は端的に言えばオールマイティ芸術家であり、書道・篆刻・陶芸・絵画・料理、そして美食家とそれぞれ豊かな才能を持っていました。山代に滞在したのは未だ30代前半で書家として売れだした頃、金沢の漢学者細野燕台に見いだされ山代温泉旅館の看板製作を依頼された事がきっかけであり、この地で陶芸家としての才能を開花させていきました。とはいえけして恵まれていた人生ではなく、上賀茂神社の社家に生まれましたが、実母が不倫の為できた“不義の子”であり、父親は彼が出生する前にこれを恥じて自殺しました。出生後は母親も失踪し、複数の家をたらい回しにされながら福田家に養子に入りましたが、最終的には実母と和解し北大路家を継ぐ事になります。非凡な才能を発揮する裏腹で火宅の人生(6度の結婚と離婚)を送ったのは、こうした経緯もあるのでしょうが凡人には想像できない葛藤の中で生きていたのではないかと思います。


山代温泉から車を15分ほど走らせると、もう加賀・越前の国境(石川・福井県境)です。金沢から福井も富山もそれほど距離の差は無いですが、金沢の人間にとって富山との距離が近い理由は旧加賀藩の領地が略石川・富山県全域に渡っていた事と、福井藩は家康の次男結城秀康公の親藩大名家だった事もあり、同藩は謂わば加賀藩の仮想敵国だった事によります。前田家は3代利常(利家孫)が次男・三男をそれぞれ富山藩・大聖寺藩に分知(総計120万石)しましたが、その前に利家の五男が将軍秀忠の小姓として臣従し、上野(群馬県)七日市藩主(1万石)に封ぜられてますので正確には四家有りました。因みに明治維新後、前田宗家はこの七日市藩から婿養子をもらい現在に至っています。








とはいえ、8世紀に入り整備された律令体制下以前は加賀も能登も越前の一部でした。奈良時代には能登は越中に併合されたり独立したりしており、丁度越中に組み入れられていた時代に大伴家持が国司として赴任し能登でも各地で歌を詠んでいます。山代温泉は同じ頃、行基が見つけて開発したという伝承です。さてこの“国境”そばにありましたのが、本願寺宗主家8代蓮如が立て籠った吉崎御坊になります。


親鸞が鎌倉初期に始めた浄土真宗もその頃は幾つかに分裂し、廃れた宗家は青蓮寺の末寺として細々と存続していました。蓮如は寺勢を徐々に盛り返し、延暦寺の迫害を受けて吉崎に一旦逃れるもその後石山本願寺を建て将来信長と対峙する寺の礎を造った事から“本願寺中興の祖”と呼ばれました。

現地に行きますと、東西本願寺の別院に加えて吉崎御坊跡を取り囲むように東系の寺院と西系の寺院が併存しており、何処にお参りしていいのか混乱します。


取り敢えず蓮如が本拠地とした吉崎御坊跡を訪れ、途上にある願慶寺で住職から貴重なお話を伺いました。有名な“嫁威肉附面縁起(よめおどしにくつきのめんえんぎ)”に係る本物のお面も観させて頂きましたが、最近某テレビ番組で芦田愛菜さんも御高話を聴かれたらしいです。






吉崎にいたのは30数年でしたがここを拠点に越前・加賀の一向門徒は団結し、当地は朝倉家に蹂躙されたものの加賀は後に柴田勝家が来るまで一向門徒の国となりました。











北国街道は源平合戦の重要な舞台の一つです。木曽義仲は東から西に大軍を動かし京に攻め入り、その3年後義経と弁慶主従は西から東へと奥州平泉を目指し落ち延びました。倶利伽羅峠で大敗を喫し立て直しを図る平維盛は、片山津温泉近くで義仲軍を迎え撃ちました(篠原の戦い)。九条兼実の日記(玉葉)によると平家四万騎に対し、義仲軍は五千騎と劣勢でしたが、結果維盛は壊走し、平家方に付いていた斉藤実盛は討死しました。


彼こそは28年前、父親を殺された二歳の義仲を抱いて木曽に逃がした大恩人でしたが、実盛は髪を黒く染めていた為に直ぐには本人とわからず、首実検の際に池で頭を洗ったところ白髪になったのを見て義仲ははらはらと涙をながしました。平家物語の名場面であり、首洗池で合掌させて頂きました。






それから500年経ち、松尾芭蕉は弟子の曽良と大聖寺藩城下に入り、全昌寺に逗留しました。彼は羽州象潟まで北上した後、日本海を下り加賀から越前に入ろうとしていましたが、その後大垣に向かい長い旅を終えました。







全昌寺には句碑もありますが、江戸末期に造られた五百羅漢(実数は517体)は見事です。芭蕉はこれらを見る事は無かったですが、地震で隆起する前の象潟の島々と海路でしか入れなかった吉崎御坊の風情ある景色をさぞかし堪能した事でしょう。

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