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南部の故郷 ~OCT,2024~


南アルプス北端の鋸岳を水源として西北から流れ込む釜無川と甲武信ヶ岳を水源として東北から流れ込む笛吹川は、甲府盆地南東で合流し富士川となり駿河湾に注ぎます。盛岡藩主南部家の故地はこの山梨県内富士川地域(現身延町、南部町)に相当します。家祖南部光行は甲斐武田氏の一族として頼朝に従い覇業に貢献しましたが、奥州征伐の功により糠部五郡(現下北半島~岩手県上半分)を得ました。南部家は鎌倉時代を通じて当地と奥州領地を往来しましたが、徐々に奥州にシフトしつつ鎌倉幕府の滅亡後本拠地を奥州に移しました。 


甲斐源氏は元々甲斐に配されたわけではありません。前九年の役で活躍した源頼義には正妻との間に三人の息子がいましたが、それぞれ元服を行った神社の名にあやかり別称を持ちました。即ち、八幡太郎義家(石清水八幡宮)、賀茂次郎義綱(上賀茂神社)、新羅三郎義光(園城寺新羅明神)と名乗ります(別稿で後三年の役で兄の義家の援軍に向かう義光の足柄峠での逸話について触れさせて頂きました)。 


義光は常陸で勢力を蓄え、長男義業は久慈郡佐竹郷に居を構え佐竹氏の祖となった一方、次男義清・孫の清光は那賀郡武田郷に拠点を構え武田氏の祖となりますが、勅勘を蒙り甲斐に配流されそのまま武田の姓を名乗りました。南部光行は清光の孫になりますが、以後甲斐源氏は武田家を宗主家としながらも枝分かれし甲斐国に蟠踞していくことになります。江戸幕藩体制下では、佐竹氏が秋田(久保田城)、南部氏が盛岡で隣り合わせで配置されたのは偶然とはいえ、運命を感じます。

 





当地域は古代より朝廷に馬を献ずる牧が置かれたところで、奥州支配地の糠部郡も三戸・八戸等、馬に関連する地名が多いですが、南部家が日本固有の南部馬の交配・供給にどう関わっていたのか興味深いです。日本書紀には『甲斐の黒駒』に係る記載あり、四世紀の古墳から馬歯が出てきている事から甲斐の馬の歴史は年季が入ってます。甲斐で馬といえば、やはり武田の騎馬軍団でしょうか。




馬を飼う牧場や南部家が配された荘園の拡張、富士川の水運もあり、古代より開けた地域だったと想像されます。平安末期には石清水八幡宮より分霊した内船(うつふね)八幡神社が置かれ、南部光行は四代前の義光を祭神とする新羅神社を屋敷の側に置きました。八幡神は軍神応神天皇であり、甲斐源氏の祖義光と共に南部家にとって重要な社だったでしょう。




光行の三男実長は父より波木井郷を譲られ地頭となり、南部宗家は奥州に基盤を移す中、子孫は波木井氏を名乗り割拠しました。彼は日蓮に帰依し身延山に久遠寺を招聘しましたが、菩提寺の妙浄寺も日蓮宗に改宗しました。寺紋は南部家と同じ向鶴であり、賽銭箱で確認致しました。因みに向鶴は、家祖光行が頼朝に従い狩に出た際に、二羽の鶴を殺さずに射落とした事が由来だそうです。 



妙浄寺から徒歩五分にある臨済宗の浄光寺は無人の寺ですが、南部氏一族のものとされる墓が供養塔と共に整然と置かれてます。本堂の裏山に有ったものが台風の為崩落し、ここに置かれたそうです。墓石は鎌倉~南北朝と推定されていますが、南部宗家が奥州に去り、波木井氏が本拠を北に移しその後滅亡した為に忘れ去られたものでしょうか。江戸時代は甲斐は幕府直轄地となり過去の遺物を護るものがいなくなり、こういう中世の残照がまだ埋もれているのかもしれません。 


波木井氏の本拠地は身延町に有りましたが、幹線道路(身延道)を脇に入り上ると終点に城址顕彰碑が有ります。大永年間(1521~1528)、甲斐統一を目指す信玄の父信虎は今川に通じた波木井義実を滅ぼし、南部氏の甲斐での足跡は途絶えました。 






相模にいた毛利も島津も鎌倉幕府の御家人として転勤・移住し明治維新を迎えましたが、同じく南部も逞しく生き延びました。南部居館跡は井戸跡しか残ってませんでしたが、前を流れる富士川は悠々と美しく、春には堤防に植えられた桜並木とのコントラストが素晴らしいことでしょう。

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