長岡京 ~OCT,2024~
そもそも平城京は永遠の都として築かれた筈ですが、桓武天皇は74年後に長岡京、その10年後に平安京に遷都しました。僅か10年でしたが本格的な造成だったようで住宅街の中で出てきた大極殿の跡地にしばし佇んでみました。
“あをによし”花の都の奈良時代は、皇位継承とそれらを擁立する皇族・藤原氏による政変が多く政権交代が目まぐるしいです。その中でも大事件は称徳天皇の崩御と愛人だった道鏡の左遷になるわけですが、この結果天武系天皇が途絶え、天智天皇の孫の白壁王(光仁天皇)に白羽の矢が当たります。彼は皇后に聖武天皇の娘井上内親王を迎え、他戸親王と酒人内親王を儲けましたが、このまま他戸親王が即位すれば天智系と天武系皇統が合体し、皇位の正統性が平和に担保されていくように見えます。ところが光仁天皇即位後、井上内親王は立后、他戸親王は立太子したものの翌年光仁天皇を呪詛した罪で両人とも廃され、山部皇子(桓武天皇)が立太子されました。36歳で太子となり、44歳で即位した事になります。
桓武天皇の母は百済王の末裔と言われる高野新笠であり、井上内親王と比べれば格下の母の下に生まれましたが、式家藤原百川のサポートを得て即位し、同腹の弟早良親王を皇太弟とします。冷や飯を食べていた天智系皇族の傍流から成り上がった新帝は、既に“いい歳”であり、自分の存在意義や能力を早く示し自らの皇統を安定化させる必要に駆られていたものと想像します。即位三年後長岡京に遷都し、藤原種継をその責任者に任命し造成を進めましたが種継は暗殺されました。
桓武天皇は早良親王を主犯として乙訓寺に幽閉し、親王は淡路島に流される途上で亡くなりました。後に崇道天皇を追称され陵墓は奈良に在りますが、ここでは供養塔が建っています。皇太子は桓武天皇の子、安殿皇子(平城天皇)が継ぎますが薬子の変の後、皇統は弟の嵯峨天皇に継がれていきます。跡取り息子の成長が思う様にいかないのは武田義信も徳川信康も然りですが、奈良朝の話は陰謀の陰をより強く感じますね。
長岡天満宮の辺りは元々菅原道真の所領が有ったところらしく、在原業平とも当地で詩歌管弦を楽しんだようです。道真は太宰府に赴く途上ここに立ち寄り名残を惜しみましたが、薨去後菅原氏一族により創立されました。因みに業平は、上記平城天皇の孫になります。
長岡京の山側には西山三山と呼ばれる西山浄土宗の総本山が並んでます。今回は長岡京市や大山崎町を巡った為、二寺(光明寺、楊谷寺)を訪れました。光明寺は元々は一の谷合戦で16歳の平敦盛を討ち取り、それをきっかけに出家した蓮生(熊谷直実)が籠った念仏三昧堂が始まりです。
楊谷寺は本堂から奥の院まで庭園を見ながら廊下・階段を歩く珍しい作りで、終点の奥の院には眼病に効く眼力稲荷社が鎮座されてました。紅葉の時期には未だ早かったでしたが、混雑する京都の街中を歩くのに飽きた方にはお勧めのスポットです。
織田信長は足利義昭を奉じて京に入った後、三好三人衆を追い出し細川幽斎に勝龍寺城を任せ補強を命じました。結局丹後に封ぜられる迄の十年間、幽斎は当城を拠点とし統治しましたが、その間に嫡子忠興は明智光秀の娘玉(ガラシャ)とここで結婚し二子(忠隆、興秋)を儲けました。光秀は本能寺の変後速やかに当城を抑え、西から来る秀吉軍に備えようとしますが秀吉軍の進軍スピードと規模に圧倒され山崎で敗れたのは衆知の通りです。盟友と信じた細川親子は喪に服すとの理由で婉曲に援軍を断りました。細川家にとって長岡という地は思い入れが深いものだったようで、関ケ原の戦い後京に隠棲した上記忠隆は長岡休無を名乗り、その後彼の子孫は熊本藩細川家の家老となり明治維新を迎えました。別稿で書きましたが、時事放談で有名な政治評論家の細川隆元はその家系になります。
勝龍寺城から僅か3km程南に下ると桂川、宇治川、木津川の三川が合流(淀川)する山崎の戦いの現場に至ります。天王山の中腹に小倉神社が有りますが、秀吉が戦いに際し戦勝祈願しそれ以来毎年三千俵の米を寄進したそうです。敗れた光秀は本拠地坂本城を目指し落ち延びようとしましたが、途中小栗栖で落ち武者狩りにより殺害されたとするのが通説です。光秀の謎は色々本でも書かれてますので又機会有れば触れたいと思います。
平安京に遷都されて60年余が経過した九世紀半ば、清和天皇は曾祖父嵯峨天皇の離宮跡地に宇佐八幡神を分祀しましたが、その後対岸の男山にも分祀し二つの八幡宮が設立されました。前者は離宮八幡宮、後者は石清水八幡宮と呼ばれますが、両宮は平安京の裏鬼門に配され今日に至るものの、現在知名度は石清水八幡宮の方が圧倒的に高いです。
離宮八幡宮は、中世に荏胡麻油の専売特許で稼ぎ、幕末迄は“西の日光”として大きな社域を維持していましたが、禁門の変で長州藩屯所となっていた為兵火で焼け、明治に入り社地の大半が東海道本線用地に転用された為かなり縮小してしまいました。
昔読んだ司馬遼太郎の『国盗り物語』で、斎藤道三が若き日山崎の神人として油売りをしていた描写を思い出し感慨深いものがありました。
JR山崎駅と阪急大山崎駅の間は僅か2-300mしかありませんが、ここから天王山に向けて急峻な坂道が続くハイキングコースに入れます。山崎駅前には千利休が建てた茶室『待庵』(国宝)を保有する妙喜庵が有りますが予約しておらず拝観叶いませんでした。山腹には観音寺、大念寺、宝積寺が並びますが、何れも禁門の変で尊王攘夷派の烈士が天王山で陣地を置いた為、幕府軍の攻撃に晒されてしまいました。宝積寺山門から三川の合流部から大阪方面の遠景が見えますが、押し寄せてきた秀吉軍が見えるようです。数万単位の大軍を待ち受けるのはここしかないでしょう。
長岡宮近くには最古級(三世紀後半)の前方後円墳、元稲荷古墳が児童公園に隣接しています。時代は卑弥呼を継いだ臺與(とよ)の時代であり、古代史を紐解く超一級品の遺跡なのですが保存状態は良くないですね。江戸時代に大規模な盗掘に遭った様ですが、竪穴式石室と僅かな副葬品や埴輪・土器片が出てきている様です。周辺部は向日丘陵古墳群と総称され、まだ他にも数基前方後円墳が分布しているようです。更なる貴重な発見を期待したいと思います。
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