top of page

橿原散策 ~NOV,2024~


橿原神宮は大和三山の畝傍山の麓に在り初代神武天皇が祀られてますが、その創建は明治二十三年と新しいです。又そこから畝傍山の山裾を1.5km程北上すると、神武天皇陵がありますが、こちらは幕末に孝明天皇が古代の小高い円墳を神武陵と比定し陵墓を整備しました。日本書紀では「畆火山の北の方の白檮の尾の上」、古事記では「畝傍山の東北の陵」と表現されてますが、天皇そのものの実在説を含め真偽は未だ謎と言えそうです。これに限らず皇統の由来や日本の起源を辿る研究は未だ途上であるものの、戦前の反動で日本古代史を過少評価したり無視する傾向は昨今少なくなり、科学的なアプローチが増えてきたと実感しています。 


古代史の実証機関として、奈良を中心に発掘調査をリードしてきたのが奈良県立橿原考古学研究所であり、その付属博物館が橿原神宮に隣接しています。常設展示では縄文時代以来弥生、古墳時代の奈良盆地から出土した豊富な展示品に圧倒されますが、特に今回特別展として古墳期の甲冑展が催されてました。火山国の日本は酸性土壌が多く、金属や骨といった埋蔵物が残存している事は一般的に難しいですが、奈良県のものを中心に古墳期の甲冑の変遷や九州、関東から出土した甲冑の展示もあり大和王権の全国統一を物語る興味深いものでした。古いものでは二世紀の木製甲冑もありましたが、二世紀というと卑弥呼の時代よりも前になります。 


縄文時代を通じで奈良盆地は大きな湖でしたが、約2600年前に生駒・金剛山地の境目にある“亀ノ瀬”近辺が陥没しました。湖の水は徐々に大阪(河内)方面へと流れだし、古墳期には湖が無くなり、現状に近い状況になったようです。縄文・弥生時代の遺跡は、この古代湖を取り巻くような形で存在してます。そして当時汽水湖だった河内湖も徐々に浅くなり消滅し、大阪平野が形成されていきました。 


戦前神武天皇即位は紀元前660年と比定され、今年(2024年)は皇紀2684年となりますが、地質学的には神武天皇は大きな湖の側で即位された事になります。これに対し古代史研究家の長浜浩明氏が五年前に上梓された“日本の誕生”では興味深い推論が為されてます。彼は神武天皇の即位は紀元前70年だったと考え、これは欽明天皇の頃(6世紀後半)まで我が国は“春秋年”(一年を春と秋で二度カウントしていた)を採用していた事によると考えました。そして日本書紀に書かれている神武東征(日向を出て大和に入る経緯)を忠実に読み、大坂湾から河内湖経由大和に入るプロセスを解き明かし、大阪湾・河内湖の地形推移から東征は紀元前後のタイミングが適当と論じてます。東工大の修士で建築士として企業勤務をされた方で、歴史研究に科学的なアプローチが重要だと強調している点はその通りだと思います。


先月の長岡京に続き、藤原京の内裏跡に立ちました。壬申の乱に勝利した天武天皇は唐の条坊制を採用し都城建設に乗り出しましたが、後継者である皇后の持統天皇が遷都を行い、その次の元明天皇が平城京に遷都するまで16年の都でした。内裏を含む宮城は大和三山の中にあり広大な敷地が拡がってますが、一ヶ月前(10月後半)には300万本ものコスモスが満開だったようで来るタイミングを間違えました。大和三山のトライアングルの中に有り、大きなパワーを感じる場所ですが、湧水が多く水はけの悪い沼地が多かった事や、藤原不比等が蘇我氏や有力大和豪族のしがらみを忌諱した事が短命な都だった理由と言われてます。 


実際橿原市北部には宗我坐宗我都比古神社(そがにますそがつひこじんじゃ)があり、蘇我氏の支配地域だった可能性が高いようです。








近所には全国で唯一蘇我入鹿を祀る入鹿神社もあります。明治政府は逆臣の入鹿を祀るのは不味いと神社の名前を変える様指示した様ですが、地元住民が拒否しました。いい話ですね。

 

 






藤原宮跡の側には高市皇子の病を嘆いた万葉歌の中に出てくる畝尾都多本神社(うねおつたもとじんじゃ)が静かに建っており、御近所の氏子の方々が境内を掃き清めてました。高市皇子は天武天皇の長子で壬申の乱で大活躍しましたが母親の出自が卑しく、天皇の後継者とはなりえず太政大臣として天武朝政権を支えました。息子は藤原不比等の4人の子供に失脚させられた長屋王で、藤原氏と対抗し皇親政治を行いました。 


西ノ京の観光スポットの一つ、薬師寺は元々藤原京の薬師寺が移されたもので、今は巨大礎石群が残ってます。こちらに残ったお寺は本薬師寺として存続しましたが、11世紀初頭(藤原道長の時代)に廃寺になったようです。保存状態は余り良くなく、東塔・西塔等の礎石がまだ近所の水田に残っており、車を止める場所も無く残念な環境でした。奈良盆地は駐車スペースの確保を常に気を使いますが、駐車だけではなく道路が隘路多く運転も大変です。頻繁な遺跡発掘で道路インフラの整備が遅れているのか、地権者の整理が複雑で進まないのか気になりますが、こういうエリアこそ小型EVを観光用で準備しておけばいいのにといつも思います。自転車で回るには広過ぎるんですよね。


おふさ観音はバラ園で有名ですが、季節を外してしまいましたが、赤い提灯で埋もれてました。古代寺院が多い地域の中で、江戸初期に出来た新しいお寺です。おふさという娘が池の側を歩いていると、観音様が白い亀に乗って現れお堂を建てたのが始まりとのこと。和辻哲郎の『古寺巡礼』に出てくるような立派な寺院や仏様がいなくても、奈良の御寺は心が穏やかになりますね。

Comments


IMG_3037.JPG

来ていただきありがとうございます!

さまざまな歴史ブログを投稿中です。是非他の記事も購読ください。

  • Facebook
  • Instagram
  • Twitter
  • Pinterest
bottom of page