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南朝の故地を訪ねる ~ 吉野 MAY,2024


後醍醐天皇は毀誉褒貶の人で様々な見方が有りますが、少なくとも倒幕と天皇親政については揺るがない強い使命感と信念を持たれていたと思います。兄の後二条天皇が早逝し偶然巡ってきた皇位であり、父の後宇多院は後二条天皇の息子(邦良親王)が成人するまでの中継ぎとして彼を指名しました。当時は後醍醐天皇の属する大覚寺統と、持明院統の両統迭立状態であった為、後宇多院が希望する後二条天皇の系統に皇位が渡る為には、先ずは持明院統(光厳天皇)に皇位が動き、その次の皇太子として邦良親王を立てる他ありません。鎌倉幕府の機能低下が進む中で最初の倒幕(元中の変)は失敗し、後宇多院と邦良親王が次々と亡くなり、後醍醐天皇は皇位を守りながら次の機会を窺いました。二度目の倒幕(元弘の変)に敗れ隠岐に流され、皇太子だった光厳天皇(持明院統)が即位しましたが、不屈の闘志で隠岐を脱出し挙兵し、名だたる将を味方につけて京に凱旋、建武の親政を始めたのはご存知の通りです。 


春日大社金龍社は元弘の変で倒幕計画が露呈し笠置山に逃げる途上、神鏡『禽獣葡萄鏡』を奉安し御祈祷されたとの事です。

 

 







奈良県は広大な盆地が拡がる上半分とは対照的に、下半分は深山幽谷とも言うべき吉野エリアになりますが、金峰山寺を中心とした吉野山一帯が不屈の王朝、南朝の拠点でした。残念ながら国宝の二王門は修理工事中で見れず、次回公開は2028年になりますが、もう一つの国宝、蔵王堂は大塔宮(護良親王)陣地と共に拝ませて頂きました。




更には隣接して護良親王の身代わりになった村上義光が自刃した場所が示されてます。太平記では、護良親王は金峰山寺陣地で幕府軍に囲まれる中最後の宴を催してましたが、義光は親王の鎧を着て息子の義隆を付けて親王を逃がし、敵に囲まれる中切腹しました。幕府軍は親王の顔がわからず、事後首実検でその事実が判明したようですが、護良親王が逃亡に成功し活躍した結果、鎌倉幕府は滅亡する事となりました。



村上親子の墓は吉野山の道路脇に在り、菩提寺の大日寺は金峰山寺前の商店街の外れに在ります。後世、武田信玄の侵攻に激しく抗した北信の村上義清はその後裔にあたります。

 







護良親王は倒幕の勲一等でしたが、父帝とは折り合い悪く、鎌倉に流され足利尊氏の弟直義に殺されました。ストーリー的には頼朝と義経の関係に似ている様に見えますが、両雄並び立たず後醍醐天皇は足利尊氏と対立する息子を征夷大将軍から解任し見捨てた結果、人望を失い勢いを失いました。建武政権は新鮮で面白い政策を数多く打ち出しましたが、公武共にこれを懐疑的に見る人々多く極めて脆弱な立場であり、尊氏が北朝を奉じて裏切った後に長期に渡る内戦を引き起こしてしまいました。護良親王と北畠顕家が揃っていれば、新田義貞も楠木正成も勢い衰えず、足利尊氏・直義も違う動きをしていたのではと想像が膨らみます。後鳥羽上皇が承久の乱を起こし100年余で後醍醐天皇が幕府を滅ぼし、その後南北朝に朝廷は分裂し、60年余り後統一され、足利義満の時代を迎えました。 


金峰山寺の参道を数分歩くと左手に吉水神社が見えてきます。廃仏棄釈で神社になりましたが元々は吉水院という寺院で後醍醐天皇が一時期居所とし、豊臣秀吉が花見の拠点にしました。興味深いのは、源義経が静御前と弁慶と共に匿われていた部屋も有ります(伝説)。義経も滞在したくらいですから、日本最古の書院だそうです。吉野の山に800年以上佇む書院は、12世紀と14世紀と16世紀の英雄を呼び寄せ、今尚霊気を漂わせてます。桜の季節はこうしてのんびりと見学をする事は無理でしょうね。


如意輪寺には、宮内庁が管轄する後醍醐天皇塔尾陵が在り、不吉な方角とされる北方に向いて置かれました。時世の句はそのまま帝の執念を感じさせます。『身はたとへ 南山の苔に埋むるとも 魂魄は常に 北闕の天を望まん』

尊氏は後に後醍醐天皇の菩提を弔うべく、天龍寺を建立しました。 





吉野山は深山とはいえ、30分も車を走らせると奈良盆地に入ります。その入り口に聖林寺が在り、高台からの眺望は素晴らしいです。ここではフェノロサを驚愕させた国宝十一面観音菩薩像を拝観できます。廃仏棄釈は天下の愚策でしたが、大神神社の神宮寺で奈良時代から安置されてきた秘仏は、廃仏棄釈により聖林寺に移され、フェノロサに見いだされ万人の目に触れる事となりました。

 

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