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下越の城下町 ~ 村上と新発田 MAY,2024

新潟に行く機会あり、更に新発田・村上と下越エリアの城下町を周遊しました。何れも近年の百名城ブームもこれあり、城下町を梃子とした観光地化に向け試行錯誤されているようです。新発田というと大倉喜八郎と赤穂藩に養子に出た四十八士の堀部安兵衛、村上というと上杉軍団の猛将本庄繁長と雅子皇后のご実家、村上藩士小和田家の地というイメージがあります。




現地に行くと、新潟都市圏に編入され城下町の面影が薄れる新発田市や、城下町の趣は強いものの過疎化の進む村上市には、活発な観光誘致活動を単独で行うのは厳しいだろうとの印象を持ちました。上杉謙信の本拠地である上越エリアとは遠く離れてますが、せっかくのビッグネームを利用しない理由はなく、米沢や会津も含めた広範な連携をしていくとかなり面白い観光スポットになるのではないでしょうか。



別稿で越後は江戸期、日本で最も飛躍的に米の増産を成し遂げた国の一つとして紹介しましたが、慶長年間で40万石程度の石高だったのに対し、幕末期には115万石程度の収量となり実に3倍弱に増えました。そもそも信濃川・阿賀野川という二つの大河は日本海に流れ込み大規模な砂丘を形成しましたが、これが増水期においては天然の堤防となり溢れた水は平野全域に洪水を常態化させる事となり、潟や沼地が広く存在していました。大掛かりな治水工事(流路の付け替え・堤防・新田開発)は政治的に安定した江戸期になり本格的に進展し、特に新発田藩の貢献は大きく、当初6万石で入部しましたがこれを40万石の実高まで持ち上げました。





地元の方々は新発田城の復元を期し活動されている方々もいらっしゃいましたが、当城は明治以降陸軍第16連隊が置かれた事もあり城の縄張りや町並みがかなり損なわれており、又新発田駅周辺やかつての商店街はシャッター街で殆ど人通りも無く、城下町の復興を担う生粋の新発田の人々は相当少なくなってしまっているような印象です。

 




そうした中で新発田出身の実業家、大倉喜八郎が向島で造ったゲストハウスである蔵春閣が移築され23年4月から公開されてます。翁が作った事業は挙げればきりがないですが、大成建設・サッポロビール・ホテルオークラ・日清製油・東京電力等々数多くの企業が現在も日本の経済を支えています。元々向島で接待用で建てられたものですが、隅田川を愛でながら内外の賓客を迎え入れた別荘として風格は固より、各種絵画・調度品のコレクションも素晴らしかったです。新発田城と藩主庭園の清水園、そして蔵春閣は新発田では是非見ておきたいものです。 


村上の歴史は中世に遡り、当地はそもそも中御門流(道長の庶子、頼宗の子孫)が保有する荘園(岩船郡小泉荘)でしたが、頼朝が源平合戦で功のあった秩父氏を地頭に送り込み、これが本庄氏を名乗ります。本庄家は村上城を造り、上杉謙信に仕えた本庄繁長の代で越後北部で強い勢力を誇る事になりますが、上述新潟平野が湿地帯でそれほど経済力が無い時代、謙信にとっては山形の最上氏、米沢の伊達氏、会津の蘆名氏を抑える重要な戦略拠点でした。本庄繁長は一時期武田信玄と結びますが秀吉の天下統一後、上杉家の重臣としてその行動を共にし、福島城代として村上の地を離れました。


江戸期を通じ一貫して外様の溝口家が支配した新発田とは異なり、村上藩は江戸期前半目まぐるしく藩主家が交替しましたが、18世紀前半以降内藤家が5万石で入部し幕末を迎えました。藩祖は家康の異母弟であり奥羽越列藩同盟に入りましたが、抗戦中藩主信民は自殺し抗戦派家老の鳥居三十郎が切腹し、同藩は存続が許されました。藤基神社の中には鳥居三十郎の碑があります。 



村上大祭は江戸初期から続くお祭りですが、ここで引き回される山車を、現地では“おしゃぎり”と呼んでおり、資料館で見る事ができます。中世から近世へと繋がる名城と城下町は、資料館とそれと並ぶ武家屋敷(若林家)、まいづる公園で感じる事ができました。





数年前に浅田次郎が上梓した『大名倒産』が昨年映画化されました。村上藩をモデルに書かれたようですが全くのフィクションであり、日本海側の譜代小藩で鮭の名産地である点以外は事実と異なります。鮭は平安時代から朝廷に献上されていた程歴史は旧く、江戸期には藩として三面川で増殖にも成功していました。次回、好物の地元の銘酒『〆張鶴』と共に楽しみたいと思います。

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