諏訪~2024年3月
諏訪にはいい温泉があり、酒も美味しく、実家を車で往復する際によく中継地点で泊まってきました。この辺りは中央構造帯とフォッサマグナの交差点にあり、諏訪大社があり、武田氏の興亡これあり、地学・歴史マニアにとっては垂涎の地です。
諏訪湖は構造湖と呼ばれる断層活動で出来た湖で、300~400万年くらい前に琵琶湖と同じ経緯で出来たものですが、規模は全く異なります。面積は13㎢ほど、最大水深で7m
くらいなので、50倍くらい大きく最大水深も100mを超える琵琶湖と比べると、ほんの水たまり程度でしょうか。31の川が周囲の山々から流れ込む一方、一本の大河がはるばる伊那盆地をつたって太平洋に流れ込む天竜川となります。日本列島の地殻変動の偶然が為せる技で、諏訪の雨は太平洋に、松本の雨は日本海に流れ込むしかけになってます。
信濃(長野県)は大きい国ですが、律令体制下では一時期、諏訪は分離し独立した国でした。奈良期の721年(養老五年)~731年(天平三年)の僅か十年間でしたが、諏訪地方を中心に北は安曇野・筑摩、南は伊那地方を含めたものと言われてます。広い信濃全域を県北から統治する物理的な困難さだけではなく、諏訪大社は日本最古の神社の一つでもあり、政治的な“格”としても重要な位置を占めていた事は間違いありません。筑紫から動いた安曇と出雲から動いた諏訪の歴史を調べていると謎とロマンが多く、今後も諏訪詣では続けたいと思います。
さて今回は最近集め出した百名城スタンプを押しに高遠城と高島城近辺をふらふらしましたが、季節外れの降雪にも見舞われ訪問予定の半ば以上は断念せざるを得ませんでした。一方想定外の発見もいくつかありました。高遠城の脇にある歴史博物館に、絵島生島事件で流された絵島(江戸城大奥の大物女官)が27年間幽閉されていた家が復元されてました。
簡単に言うと、絵島と歌舞伎役者生島新五郎との関係が幕府に疑われ綱紀粛正の為、生島が三宅島、絵島は当地に流されたものです。絵島は6代将軍家宣の側室月光院(7代家継の母)に仕えてましたが、大奥は正室の天英院派との間で確執があったとの事で、大奥の政争に利用されたという解釈もあるようです。将軍家はその後家継が早逝し秀忠の男系子孫から、紀州徳川家(家康十男頼宣)の吉宗が引き継いでいく事は衆知の通りです。
諏訪大社の祭神は建御名方神(タケミナカタ)であり、諏訪氏はその後裔になります。古事記では国譲りの話で出てきますが、出雲の大国主命の息子で、“国譲り”に反抗し最後は諏訪に追い詰められて降伏する物語になります。諏訪氏は神官と武家を兼任した珍しい家であり、武田信玄により一旦滅ぼされましたが、関ケ原の戦いでの勲功により父祖伝来の地に戻り明治維新を迎えます。
元々日本三大湖城(他は松江と膳所)の一つで諏訪湖畔に浮かんでいるように見えた城ですが、小天守から諏訪の町並みを見ると湖の反対方向に富士山が正面に見えます。見事なコントラストと言わざるを得ません。
高島藩主諏訪家墓所(温泉寺)は国史跡に指定されており、こちらからの湖の眺望も見事です。日本各地で旧藩主家の墓所が国史跡となってますが、高額な相続税の為先祖の遺産を個人で維持していく事が極めて困難な日本では、こうした歴史的遺物の維持コストをどういう定義で賄い守っていくのか永遠の課題です。地震の倒壊リスクが大きいのか、無粋な“危険!”という注意喚起の紙が多く貼られてました。
ここには和泉式部の墓もあります。彼女は彰子に仕えた紫式部の同僚であり、多くの浮名を流した女性であり、百人一首に取り上げられた有名な歌詠みでしたが、何故諏訪にお墓があるのでしょう?お父さんは越前守、離縁した夫は河内守でしたが、信濃には縁がありません。地元の言い伝えでは、幼い頃に両親を亡くし養女になった彼女は信心深く、お地蔵さんへのお供えを欠かさずお詣りしていたところ、仕事をさぼっていると誤解されて額に火箸を当てられ傷を負ったが、お地蔵さんがこれを治して美人になり、後に上京したとの事です。
和泉式部は眉唾ですが、永田鉄山は本物の諏訪人であり、高島城内で銅像が置かれてます。1935年(昭和十年)8月、皇道派の狂人に斬殺されましたが、陸軍は彼を喪失した事で東条英機が頭角を現し歯止めが効かなくなります。永田の前に永田なく、永田の後に永田なしですね。
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