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武蔵国衙あたり ~ 国分寺・府中 JUN,2024


ご近所ツアーで訪れた事は過去有ったものの、改めて見所を縦断してみました。旧国の配置は七世紀後半の検討作業を経て大宝律令の頃八世紀初頭に略確定されましたが、武蔵国には703年(大宝三年)に国司が派遣された事が初見されます(続日本紀)。間もなく平城京に都が移り、半世紀後には聖武天皇により国分寺・国分尼寺が置かれましたが、現在国分寺市から府中市に跨りこれら国府を代表する建造物の遺跡を訪れる事ができます。


武蔵国は21郡、現在の埼玉県・東京都・川崎市・横浜市の一部を含む大きな領域を占め、延喜式(十世紀初頭に定められた律令の施行細則)では国ごとの等級が定められましたが一番上の大国と位置づけられました。重要度は中世・近世も変わらず、江戸時代を通じ江戸という大都市を抱え200万人弱の人口がいたようで六十余州最大経済規模の国として明治維新を迎えました。

 


京王線府中駅を降りるとすぐ、武蔵国の総社である大国魂神社が有りますが国府及び関連施設はこの一帯に在りました。周囲は公共施設、マンションが密集しており当時を想像する事は難しいながら、神社の東隣には狭いながらも国衙跡のエリアが作られ、南西には国司館跡のエリアが広場として整備中でした。秀吉から領地転換を強いられ江戸に移った家康は、古代の国府跡に屋敷を構え(府中御殿)、度々立ち寄った様です。

 


主要幹線道路として当時東山道から官道が分岐し、上野新田から武蔵国府経由、相模国府(平塚市)まで幅12メートルの道が南北に繋げられ、東山道武蔵路と呼ばれました。東山道と東海道を接続し、その中心に武蔵国府は位置しました。この道は現在の府中街道、武蔵野線に略沿ったルートに在ったもので、国府から数百メートル北上すると西側に国分尼寺、東側に国分寺の広大な敷地が拡がります。

 










国分尼寺は武蔵野線の西側に隣接し小さな公園になってますが、そこから北には中世の鎌倉街道と伝わる狭い切通しを歩くことができます。新田義貞はここを南下し、分倍河原に向かったのでしょうか。騎馬が2頭ぎりぎり走れるかという道に見えますが、戦場まで3km程度の距離になります。



義貞は一旦敗走しましたが、敵の油断を誘い奇襲で破り鎌倉になだれ込み、鎌倉幕府は滅亡しました。その120年余り後、当地でもう一つの分倍河原の戦い(鎌倉公方vs関東管領)が有りました。その結果”関東の応仁の乱”と呼ばれる享徳の乱が始まり、鎌倉公方足利成氏は鎌倉を諦め古河に移りました。鎌倉街道沿いに多摩川 を巡る攻防は古来激しいです。



義貞は序盤の敗戦で国分寺を焼失させましたが、薬師堂を建立・寄進し今日の国分寺に継承されました。現国分寺の南側に、広大な国分寺跡地が拡がっており、今後も引き続き発掘及び遺跡の整備を進めていくようです。

 






大國魂神社から旧甲州街道を西に500m程動くと高安寺があります。ここは足利尊氏が後醍醐天皇以下戦没者を慰霊する為に建てられた旧安国寺の一つですが、元々は藤原秀郷(鎮守府将軍、武蔵守)が平将門を討伐する為に武蔵国司として赴任した館の跡で、見性寺という寺院でした。腰越状の効果無く、義経と弁慶は逃げてここに立ち寄りましたが、弁慶が大般若経を書写した際に硯に入れる水を汲んだ井戸が残されてます。



武蔵国が出来る前夜、七世紀半ばに出来た上円下方墳が大國魂神社エリアから甲州街道を西に2.5km程度の場所にあります。近年レーダー探査の後に発見されましたが、埋葬者は当該エリアの有力者である事は間違いないものの、大和朝廷との関係やその後半世紀を待たずに作られた武蔵国衙の統治システムにどう取り込まれていったのか興味深いです。




国分寺・府中は、7世紀の古墳、8世紀の国衙と国分寺、10世紀の俵藤太(秀郷)、12世紀の義経、14世紀の新田義貞と足利尊氏、15世紀の足利成氏、16世紀の家康と手軽に出会える面白い場所です。

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