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津軽回遊 JUL,2024


予てから三内丸山遺跡に行きたいと思ってましたが、東京から青森に行く移動オプションは新幹線、飛行機、車と色々有り、中でも空港は青森空港も有るし大館能代空港も有ります。十和田湖に行った事が無かったので、大館側から北上し同湖を目指す事としました。十和田湖は地図上で見るだけでもわかるカルデラ湖ですが、百六十万年前からの活火山で、直近の噴火は915年(延喜十五年)ながら今だに気象庁から常時観測火山に指定されてます。


7月半ばの訪問で梅雨前線の位置次第では雨に祟られるリスクが有りましたが、幸い天候に恵まれ十和田湖やそこから流れ出る奥入瀬の清流を楽しむ事が出来ました。奥入瀬渓流は十和田湖から流れ出る唯一の川で、1万5千年くらい前にカルデラ湖の一端が決壊して出来た渓谷です。川に沿って国道102号線と遊歩道が平行しますが、川と道路がこれほど接近している風景は珍しく、清流と高木に囲まれた空間を車で走り贅沢な時間でした。 


明治の美文随筆家、大町桂月は土佐の生まれですが、晩年奥入瀬山中の蔦温泉旅館に本籍まで移して居住し、呑みすぎ(胃潰瘍)で亡くなりました。同じ宿に泊まらせて頂きましたが、本宿では地下から湧き出る源泉(46℃)の上に湯舟の底板が敷いてあり、経験した事のないお湯と湯気の抱擁感に包まれ極楽な空間でした。青森の食材を尽くした料理と酒も堪能し、

桂月が終の棲家とした理由はよくわかりました。行って気がついたのはアントニオ猪木夫妻も頻度高く訪れていた様で、生前に当地で墓を造られたとの事です。 


さて本来なら深山幽谷で温泉に浸かりながら之迄の人生を振り返り瞑想に浸るべきですが、今回二泊し国立公園の山中と津軽平野を往復しながら旧跡を辿りました。本来の目的地、三内丸山遺跡は青森市郊外に有りますが、遺跡と共に立派な施設も置かれ、流石日本史の教科書を書き換えるだけの遺跡です。時代は縄文海進のピークを越えた5900~4200年前で、未だ津軽平野の8割は海の下にあり、500人の集落で栗や胡桃の木を植えながら、狩猟で生活をしていたようで、ゴミ捨て場からは魚の骨も動物のそれも豊富に出てきます。域内交易も盛んで、土器以外の翡翠や黒曜石の質から長野方面との交流が確認されます。

この遺跡で最も有名なものは、六本柱建物でしょう。地中の穴や僅かに残っていた栗の木の太さ、間隔、建造物を安定させる僅かに柱を傾斜させていた技術などを勘案し、用途は不明ながら大きな櫓が復元されています。縄文人が一定規模の集団社会を築き、域外との交流を陸路・海路を問わず行っていた事は大きな発見です。

 




津軽の覇者、津軽為信の豊臣秀吉への恭順の早さや、南部氏からの独立・反目は有名な話ですが、これに至る津軽半島を巡る勢力争いが史実として目に見えてくるのは13世紀頃からになります。8世紀末(桓武天皇紀)の坂上田村麻呂の戦場は現在の宮城県北辺、11世紀の前九年の役での源頼義と安倍貞任の戦場はせいぜい秋田・岩手県域であり、青森県域が歴史上話題に上がるのは奥羽の覇者となった奥州藤原氏(12世紀)の時代くらいからになります。








鎌倉期に於いては当該地域が北条氏の荘園が多かった為に派遣された御内人(安東氏)、御家人の南部氏(津軽に配置された一族は大浦氏で後に津軽氏)や伊達氏、大江氏(寒河江氏)、南北朝に入ると南朝の大将軍北畠顕家、足利一族で送り込まれた吉良氏や斯波氏(大崎、最上氏)と、その時代の英雄一族の子孫が群雄割拠していました。中世400年の奥羽戦国史は終盤伊達氏の伸長で拮抗が崩れ始めましたが、小田原征伐後豊臣秀吉による奥州仕置によりゲームオーバーとなり、関ケ原を上手く乗り切った氏族が江戸幕府の大名として生き残りました。大きい順に、伊達、最上、南部、津軽、秋田氏等となります。

 





戦国前期の津軽平野は、安東(秋田氏)・大浦(津軽)・浪岡北畠氏の鼎立状態で、八戸・盛岡方面から南部氏がちょくちょく干渉してくる状況でした。13~15世紀にかけて保有し栄えた十三湊は、元々国内・大陸との交易拠点として奥州藤原氏が開発したものを安東氏が奪い拠点化しましたが、15世紀に南部氏が侵攻した後廃れていきました。現在十三湖は汽水湖ですが、当時は内海で海とのアクセスは良く、南北から流れこむ海流の合流点にあり貿易港として優れた立地でした。


湊と館や町並みは静かな漁村の下に埋もれていますが、当時の航路は狭いながらも確認できます。安東氏は秋田の領主として戦国期を生き抜き幕藩体制下に入りました。関ケ原で旗色を鮮明にしなかった佐竹が常陸から入部し、秋田氏(安東氏)は常陸に移された後福島県の三春に転封され明治維新を迎えました。

 



南朝の神将、北畠顕家の子孫は浪岡城を拠点にしぶとく津軽平野の一角を領有していましたが、1578年(天正六年)大浦為信に攻められ滅ぼされました。浪岡城は続百名城に指定されましたが、顕家死後子孫が140年に渡り本州北辺の地で勢力を張っていたのは興味深いです。平城の細長い縄張りで千~二千程度の兵で守る規模に見え必ずしも堅城とは言えませんが、地元では御所と呼ばれていた様で北畠のネームバリューと相俟って城館としては十分だったのでしょう。

為信は南部氏から離れて津軽氏を名乗り、上述秀吉の臣下に入る事に成功しました。為信の根回しは周到で、予てから近衛家当主の前久に接近し、為信の祖父政信は津軽に下向した近衛尚通の庶子であるという事を認めさせました。津軽家は南部(清和源氏)とは異なる藤原氏を名乗り、近衛家家紋(近衛牡丹)の使用が許されました。北畠氏は村上源氏庶流の名家ですが、ひょっとしたら貴族としては格上の近衛家の一員になる事は、為信の統治戦術としても有効だったのかもしれません。


為信は上洛し秀吉の聚楽第を見て、居城の堀越城を改修しましたが、土塁の城ながら本丸と各郭を改修し近代城郭の縄張りに近づけました。弘前城の建造は関ヶ原の戦い以後に始まり、為信死後信牧が完成させました。天守閣は現在場所を少し移動させて、石垣の修理をしています。連休中満開になる桜で有名ですね。




工事現場には誇らしげに、近衛家からもらった家紋がたなびいてます。

 









津軽家の菩提寺は長勝寺で、禅林街と呼ばれる通りの突き当りに位置し、通り沿いの左右に三十三の曹洞宗寺院が整然と並んでおり見事です。境内には嘉元四年(1306年)の銘がある鐘が吊るされてます。執権北条貞時の名前もあり、元々は安東氏の寺院のものだったのか由来が気になりましたが不明だそうです。お城も美しいですが、弘前藩十万石の城下町を感じられる場所でした。 




空港に戻る途上、大館で奥州藤原氏四代泰衡公が最後に殺された場所を訪れました。当地は元々大和朝廷の城(贄の柵)が有った場所で、家臣の河田次郎は泰衡公を殺し首をはねて源頼朝に届けました。中尊寺金色堂で見つかった首のミイラは泰衡のもので、当地の村人達は残された胴体を埋めて祀りました(錦神社)。





神社の前には、泰衡の首を入れた箱から出てきた種から育った蓮が狭い場所ながら育てられています。

 








大館は秋田犬(ハチ公)や比内鶏で有名ですね。秋田犬観光施設に行く時間は有りませんでしたが、空港のレストランで比内鶏を食べて飛行機に乗りました。次回は白神山地や五能線も攻めたいですね。

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