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江戸城に最も近い城下町 ~ 岩槻 JUL,2024


旧岩槻市は2005年にさいたま市(浦和・大宮・与野市が2001年に合併済)に併合され、現在さいたま市岩槻区となっています。明治維新後の廃藩置県以降、旧国の代わりに設定された都道府県名の多くは旧郡名が採用されてますが、さいたま市の中で旧埼玉郡に属するのは岩槻区だけで、その他は旧足立郡の範囲になります。行政区の合理的な統廃合は異論有りませんが、文化も歴史も感じられない合併都市のキラキラネーム化には抵抗を覚えるのは私だけでしょうか。 


秀忠以降、徳川将軍が日光御成(社参)をしたのは19回有ったそうですが、江戸城を出て最初の宿泊地が岩槻(城)でした。現在埼玉県幸手市の辺りで日光街道に合流しますが、天下の大将軍が民泊するわけにはいかず、わざわざ城のある岩槻を経由して北上するバイパス(日光御成道)が江戸時代に整備されました。

 














岩槻(岩付)城の築城は諸説あり、扇谷北条氏の家宰太田親子(道真・道灌)か、扇谷北条氏と敵対していた古河公方方の成田氏らしいですが、関東平野の中央に位置する重要戦略拠点でした。別稿(『風呂場は要注意』)で書きましたが太田道灌は仕えていた上杉定正に暗殺され、岩槻城を継いだ甥の資正は息子(氏資)に裏切られ、氏資亡き後、北条氏政の息子が跡を継ぎ当城は後北条氏のものとなりました。上杉家は山内家と扇谷家とに分かれ長年抗争をしましたが、山内上杉家は扇谷家の家宰である太田氏を滅ぼした結果、更に強い敵(後北条氏)を南関東に招き入れてしまいました。

 



北条氏康は息子達を拠点毎に配置しましたが、小田原城の支城としては最大兵力をここに置きました。北から攻めてきた敵兵は旧荒川の流れに阻まれ、よしんばそれを越えたとしても広い湿地帯と沼に囲まれた城は容易に落ちそうにありません。今は沼は小さくなりましたが、オシャレな橋がかけられ桜の名所になってます。障子堀が発掘されており、後北条氏が手を入れた跡が確認できます。 



太田氏の菩提寺、芳林寺を訪れましたが、残念ながら門が閉じられており中に入れませんでした。梅雨の合間の晴れた平日でしたが、外から見えるものだけ写真に収めましたが立派な太田道灌の騎馬像を拝む事ができました。

 






久伊豆神社は城の北辺、新正寺曲輪跡に在り岩槻城の鎮守とされてきましたが、創建は旧く欽明帝の時代(1400年程前)に遡ります。祭神は大國主命、出雲の国譲りの神様ですね。近辺には同系の久伊豆神社が幾つか有り、平安から中世にかけて活躍した武蔵七党のうち私市党と野与党の勢力範囲と符合する様です。七党は数え方によっては九党あったりして未だ謎が多いですが、中には桓武平氏由来だったり小野篁を先祖とするものもあり、多様な武士団が南北朝・戦国期にかけてどう収斂し、有力大名の支配下に組み入れられていったのか興味深いです。


岩槻藩は初代高力氏以降およそ150年の間に八家が藩主として目まぐるしく交替しましたが、その後あの“大岡越前”の御親戚にあたる大岡忠光が藩主となり、そのまま大岡氏が藩主として明治維新を迎えました。1799(寛政十二年)年に建てられた藩校の遷喬館は全面解体修理を経て、無料開放されてました。僅か二万石の小藩でしたが、本学には武芸稽古場も併設されこじんまりとしながらも人材育成への信念を感じました。


急速な都市化、宅地化の中で城下町の趣きは薄れましたが、僅かに残る城下町の痕跡を辿るのも楽しいです。川越が小江戸なら、岩槻は近江戸にてもう少し脚光浴びてもいいかもしれません。

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