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殺しあう公家の三様 ~ 清原致信、綾小路有時、唐橋在数


NHK大河ドラマ『光る君へ』では藤原兼家の次男道兼がまひろ(紫式部)の母ちやはを殺してしまい、衝撃的な展開で呆然としてしまいましたが、同時に違和感を覚えました。人の死に対する穢れの意識が強く、怨霊を恐れた平安時代で、上級貴族の子弟が自ら手をかけて人を殺した上に返り血を浴びた状態で自宅に戻るという設定は無理があるのでは、、、と。ドラマなので余り拘るところではないのかもしれませんが。因みに、紫式部の娘(大弐三位)は二度結婚しましたが、最初の夫は道兼の息子兼隆との説が有力です(ドラマで描かれるのかは不明です)。 


清原致信は清少納言の兄、兄妹の父親元輔は三十六歌仙の一人で有名な歌人ですが、源頼親(摂津源氏)の郎党に斬殺されました。致信は当時道長四天王と言われた武勇を誇る家司の一人、藤原保昌の子分でした。保昌と頼親は、大和国で利権争いをしてましたが、致信は頼親の子分である当麻為頼の暗殺に関与し、その仕返しを受けました。致信が襲撃された際、同居していた清少納言は法衣を着てて性別がわかりにくい状況だったので、彼女は股間を見せて自分が女性であると証明し殺害を免れたとの逸話があります(故事談)。彼女は道隆の娘定子に仕えてその後引退し、当時50歳を少し超えていましたが、道長全盛期においては“過去の人”であり嘲笑の対象だったのかもしれません。ボスである保昌は道長の薦めで男性遍歴が盛んだった和泉式部と再婚しその後も無傷で受領国司のキャリアを積んでましたが、和泉式部は紫式部同様道長の娘彰子の女房であり、夫婦ともに道長のお気に入りでした。この事件については、摂関期における武士階級台頭のエピソードの一つであると共に、保昌と致信の対比で勝ち組の彰子派と負け組の定子派の状況を暗喩しているような気がします。因みに舞台となった大和国は、院政期以降摂関家の子弟が興福寺に送り込まれ、実質興福寺が中世の大和の国司(興福寺別当)として君臨する事になりました。 


一般的に公家は家毎にそれぞれ相伝する“芸”を持ってましたが、綾小路家は郢局(えいきょく)と呼ばれる宮廷歌謡が家業で、代々天皇の先生をしてました。そもそも大内裏の中に清暑堂というコンサートホールみたいな場所が有ったようですが、大嘗祭の際に行われる清暑堂御遊(せいしょどうぎょゆう)という音楽会が最大のイベントでした。大嘗祭ですから、天皇即位の時にしかありませんので、将に一世一代の大舞台です。拍子役という役割(指揮者かベースか?)が最も重要で、当時実力・経験ある綾小路有時が後醍醐天皇の大嘗祭で任命されました。暗殺者は同じく雅楽を家業とする紙屋河顕香でしたが、彼は流罪となりました(殺害理由についてははっきりしてませんが、文保二年の綾小路有時殺害事件についてという論文で、渡辺あゆみさんが背景を類推されているのでご興味ある方はお読みください)。宮廷儀式の中でも雅楽の役割は大きいと思いますが、それぞれ家の名誉を背負って芸を磨いていた中で、嫉妬や足の引っ張り合いも有ったのかなと想像します。忠臣蔵の吉良上野介と浅野内匠頭みたいな関係が有ったのでしょうか。何れにしても、その後の後醍醐天皇の治世を暗示するような事件でした。 


上記事件は何れも殺人委託をしたケースですが、戦国時代に入り困窮を極める九条家で、親子による殺人事件が起きました。九条家は元々道長・頼通が築き上げた膨大な荘園を近衛家と共に引き継いだ豊かな家であり、鎌倉期前期では実朝の後の将軍(頼経)を出した事でも有名です。唐橋家は九条家の家司(朝廷に仕える公家であると共に、特定の上級貴族に使える家)として同家に仕えてきましたが、応仁の乱以降荘園からの収入が激減し九条家に財政破綻が近づきます。九条政基は兄との家督争いの末に九条家を継ぎますが、母親が唐橋家出身で、その兄妹である唐橋在治が家督承継に貢献した事で家令として九条家財政を切り盛りしてました。在治は九条家の借金の肩代わりをして和泉国の荘園(日根荘)収入を担保として取りますが、在治が亡くなり息子の在数がその役割を引き継ぎました。やがてその荘園収入も滞り、紀州根来寺から荘園を抵当に入れて借金をしますがそれも返せなくなり、九条政基・尚経親子と唐橋在数の関係は険悪になり、屋敷を訪れた在数を自ら殺害しました。


戦国期における朝廷・貴族の権威や経済基盤の凋落を示す事例ですが、何より貴族が自ら手をかけた殺人事件である点と在数は家司であると共に朝臣でもあり、当時後土御門天皇以下どういう処分を下すか相当悩んだようです。興味深いのは、菅原氏由来の公家が連携して事件を弾劾した事で、菅原道真公左遷以来600年ぶりの菅原氏vs藤原氏の対決になった点であり、結局家格の違いも考慮して朝廷は政基・尚経親子の非は認めながらも勅勘・出仕停止処分に留まりその後3年程度で罪は解かれました。


しかし九条家の窮乏が解決したわけでなく、政基はその後自家荘園の現地に赴き直接統治を試みたり、息子(澄之)を細川政元に養子に出し“武家化”を試みますが上手くいきませんでした。

 

貧すれば鈍すと言いますが、名門と呼ばれる家ほど生活レベルを落とす事は難しく、生活手段も乏しいのでサバイバルは大変です。縮小均衡は言うに優しく行うに難しいわけですが、我慢しながら活路を見出してきた近衛家や一条家の事例も含め、戦国期の朝廷・貴族のサバイバル事例は現代日本の“我慢戦略”にとって参考になるかもしれません。

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