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石高と人口で見える江戸期の日本


一人の人間が一年間で食べる米は一石として計算するのがいいと言われてますが、小生が愛読する『旧国名でみる日本地図帳』(平凡社)で見ると、天保年間で人口は約28百万人、石高で30百万国強とのことで、1.1石/人ぐらいで試算できます。石高は郷帳という、幕府が定期的に全国の村ごとの租税情報を取り纏めたものがあり、そこから判断できますが、慶長期(幕府成立直後)で22百万石余りでそれが明治五年で32百万石まで増えてます。米の収量だけで判断するのは多少乱暴かもしれませんが、ひとまず日本の人口は江戸期に1.4-5倍に増えたという事が言えそうです。国ごとに石高の推移を見ると、際立って米の収量が増えている国が幾つか見られます。単純に人口が増え需要が増えたという事だけではなく、貨幣経済や都市化、物流の発展と共に、米を輸出品として位置付け増産に励んだというケースも多いと思います。全国平均で145%(慶長期から明治初期の増産量比較)ですが、200%を超える国は以下の通りになります。

 

〇下総 : 275%

手賀沼や印旛沼の干拓をイメージしますが、これらは幾度か洪水で大きな被害を受けたとも理解しており、どの程度貢献しているのか不明です。但し、大都市化が進む江戸への食糧基地としてこのエリアの耕作地は大幅に伸びた事は間違い無いでしょう。江戸初期から行われた利根川河口を東京湾から銚子沖に変える事業も大きく影響したのではと想像します。

 


〇越後 : 256%

広大な(新潟)越後平野は今は米どころとして有名ですが、信濃川流域は元々排水が悪い湿地帯でした。江戸期に地道な干拓や水路の開削を行い、飛躍的に新田を増やしてきました。世の中気候変動の話が喧しいので、少し蘊蓄をたれます。

前回の氷河期が終わったのは約一万年前ですがそれから徐々に温暖化が進み、日本も例外なく海が陸地を浸食していきました。これを縄文海進と呼んでおり6千年前くらいがピークだったようで、この点関東平野も新潟平野も同様です。但しこの地域の海岸線は砂丘や砂嘴が発達し、大型河川が多く流入し大量の土砂供給により大きな沖積平野が拡がったものの、容易に溜まった水が出ていかず潟や沼が多く点在し、洪水が起こりやすく農地や宅地に適さない状況が長く続きました。新潟はそのままストレートな意味を持つ地名ですね。

 

〇長門 : 342%、周防 : 336%

突出した増加量ですが、言うまでもなく長州藩です。関ケ原の役の後、120万石を領していた毛利家は37万石に押し込められますが家臣の多くは毛利家を離れる事を拒否し、貧しい武士は兼業農家で田地を開墾していきます。明治5年の長門・周防両国の石高は足して略100万石であり関ケ原の旧領を回復しつつ明治維新の主役となりました。

 







〇土佐 : 252%

長曾我部の遺臣を郷士として配下に組み入れ、ある意味長州藩並みに士族階級が多かった藩だと思いますが、貧しい武士はやはり兼業農家は多く、新田開発への意欲は強かったものと推測されます。郷士の窮乏は司馬遼太郎が『竜馬がゆく』で書いてますが、米の収量や南国故の二期作アドバンテージもあり、日本の中ではかなり豊かな地域ではなかったでしょうか。

 




マイナーですが特殊な例で佐渡は656%、7倍弱に伸びました。大幅に人口が増えた要因はやはり佐渡金山でしょう。労働者だけでなく、そうした人々の生活を支える様々な人々が流入したと思われますが、佐渡奉行の置かれた相川には4万人いたと言うのでさもありなんだと思われます。唯一収量を減らしている国は河内ですが、旧くからある歴史ある地域であり、十分開発が進んでいて拡張余地が無かったという事かもしれません。

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