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格好いい落馬と格好悪い落馬 ~ 井伊直政とルイ3世


古今東西落馬で亡くなられた方は数多くいますが、狩猟や戦場での事故のケースが多いようです。記憶に新しいところでは、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、相模川橋の落成供養の帰り道、安達盛長が手綱を取る中、頼朝は馬から崩れ落ちました。疾走していたわけではないとすれば、落馬は死因の二次的要因だと思われます。 


井伊直政は2017年の大河ドラマに出てきましたが、桶狭間の戦い後今川家の求心力が無くなっていく中で徳川家康の小姓となり、後に徳川四天王の筆頭を占める若き日が描かれました。関ケ原の戦いは衆知の通りですが、個人的には島津軍による敵中突破=前進撤退が推しです。撤退というものは普通敵に後ろを見せて行うものですが、島津軍は大将の義弘を逃がすべく、弟の豊久が“捨て奸”(すてがまり)となって敵を引き付け討死するまで戦い、遂に家康本隊の横をすり抜けて戦場から去りました。戦いの全容には影響しないものの、東軍としては“触らぬ神に祟りなし”という強さだったのでしょう。


この物凄い軍団を果敢に追撃したのが、壮年になっていた直政であり、彼は単騎で義弘の目前に迫ったものの島津側に足を狙撃され落馬してしまいました。直政は三河伝来の家臣を差し置き、家康の家臣としては一番出世を遂げますが、係る戦場での勇猛さだけではなく、行政・外交能力ともにバランスよく優れていた様です。ただ残念なことに、直政は2年後42歳で亡くなりました。関ケ原での傷が原因とも言われています。

 


ルイ3世は初代神聖ローマ皇帝となったカール大帝(シャルルマーニュ)の昆孫(孫の孫)にあたります。彼の祖父の代から兄弟間で大帝国はフランス・イタリア・ドイツエリアに分割されましたが、その西フランク帝国の3代目になりました(とはいえ弟のカルロマンとの共同統治になります)。彼は879年に即位しましたが僅か3年後、自領のサン=ドニで馬に乗り綺麗な少女を見かけて追いかけていたときに扉の横石に頭を打ち付けて転倒、即死しました。


綺麗な女性に見とれて怪我をするケースは、時代を超えた黄金パターンでしょうか。

歩きスマホもやめましょう。

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