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長男の次は三男だった ~ 結城秀康と細川興秋


跡取りの確保は重要課題であり、通常次男は長男のスペアとして準備しておく立場ですが、必ずしもその地位は保証されているものではありません。家康の長男信康が自裁した1579年、次男の秀康は5歳、三男秀忠は未だ生まれたばかりでした。諸説ある中、秀康が家康の息子として認知されるまでに時間を要したわけですが、当時の医療水準からすれば、他に5歳と0歳の兄弟しかいないのに20歳の長男に自害を強いるのは余程の事情と言わざるを得ません。

豊臣秀吉は永らく子供に恵まれず、実姉や有力諸侯の息子を次々と養子に迎えてましたが、小牧長久手の戦い(1584年)での和睦の条件として秀康を養子とし、その後結城家を継がせました。この時点で、秀忠が後継者、前年に同じ母から生まれた四男忠吉がその次との順番が決まったと思われます。その後生まれた五男信吉は武田家を継がせようするも早逝し、最後は天寿を全うする六男忠輝は母親の身分に難あり、七男・八男も早逝し、御三家を担う九男義直、十男頼宣、十一男頼房が出生していきます。

天下取りに進む過程で、秀忠を支える兄弟をしっかり確保し、幕府開設後はそれぞれ戦略ポイントに配置した家康は、秀吉との対比で見ても流石と言わざるを得ません。


一方、将軍秀忠より年長の息子である秀康の処遇をどうするかという点が火種であり、秀康は梅毒で1607年に33歳で亡くなってしまいますが、それを継いだ忠直は未だ12歳でした。そもそも秀康は関ケ原以後大幅な加増を受け越前北庄に配置された結果、有力武将を積極的に召し抱えておりました。若い忠直にとって家中を纏め上げるのが至難だった様重臣同志が二分してしまった事件(越前騒動)や、大坂の陣以後の処遇を不服として将軍家に対して不遜な行動が重なり、忠直は強制隠居となり豊後に流され、次男の忠昌が跡を継ぎます。以後越前福井藩は次男の家系が継ぎ、忠直の家系は別家を建てて存続する事となりましたが、概観すると秀康の子孫は前向きなプライド(秀忠の兄の家としてしっかり将軍家を支える)と後ろ向きなプライド(本来なら自分が将軍になっていたのに)が相混ざりながらも存続し、養子とはいえ幕末には松平春嶽が賢公の一人として活躍しました。秀康の子供達は、その他3人(直政は出雲松江藩主、直基は播磨姫路藩主、直吉は越前大野藩主)も大名となり越前系松平氏は繁栄します。こうしてみると、秀康がもらった所領は結城家分も入れて75万石、幕末時点の越前系5家の所領も足すと略同じであり、御三家の何れも上回っている点、宗家(忠直系)は色々ありましたが優遇されていたと言えるのではないでしょうか(子沢山の家斉から養子をもらって加増された家が二家ありますが)。 


細川忠興と明智光秀の娘、玉(ガラシャ)との間には3人の男の子がいましたが、結局三男の忠利が忠興の後を継ぎました。忠隆の話は別稿で書きましたが、関ケ原前夜、大坂屋敷でガラシャが自害したのに対し、忠隆の妻(前田利家娘)は近所の前田家屋敷に逃げた事で忠興は激怒し、忠隆に離縁を求めます。彼はこれを拒否した為廃嫡となりましたが、忠興は次男の興秋ではなく、三男の忠利を嫡子とする事にしました。それまで江戸に人質として送り込まれていた忠利は呼び戻され、次男の興秋が変わりに江戸に向かいますがその途上で出奔し、京で出家、隠棲してしまいます。この場合、同じ両親から生まれていながら三男が優先された事もあり、興秋の憤懣やるかた無しという事だったのでしょう。彼はその後、大阪の陣で大阪城に入り奮戦するも破れ、切腹しました。

忠利は徳川家の人質として江戸にいただけで武功も無いまま藩主になった事を気にし、長兄忠隆や不遇をかこつ親族に気を配っていたようです。加藤清正へのリスペクトや現代に続く美術遺産への貢献も含め、細川家のこういう品格や文化は好きです。


次男といえばヘンリー王子も心配ですが、スペアの人生を屈辱と思うか名誉と思うか、人生は大きく狂いますね。

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