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信州信濃のそばよりも… 国替えと共に山陰に動いた蕎麦文化(松江と出石)


越前松平家といえば、徳川家康次男の結城秀康が越前北庄に入部していて以来の名門を言いますが、3男直政は大阪の陣での活躍や、将軍家光との好関係もこれあり京極氏の後、出雲松江藩を継ぎ国持大名となりました。信州松本藩7万石から松江藩18万6千石への大出世ですが、奇しくも城は両方とも12しかない現存天守を擁し国宝指定されてます。松本城に行くと美しい天守閣の脇に少し出っ張った月見櫓が有りますが、これは直政が家光の善光寺詣りの帰りに立ち寄る際に付設したものだそうです。直政は1638年に松江に動きますがその際に信州の蕎麦職人を連れていったそうで、今日の出雲そばの由来になります。風流大名で有名な7代治郷(不昧公)は蕎麦好きで、屋台に食べに行ったり、懐石料理に蕎麦を導入したとの事で、今日〆で蕎麦を食べられるのは公のお陰かもしれません。出雲そばというと重ねられた割子で出てくるイメージですが、蕎麦の身を皮ごと石臼で引くのが特徴で、その分香りも強いとのことです。 


仙石家は秀吉に取り立てられた秀久が有名ですが、この方は一度戸次川の戦いで島津軍に敗れた責任を取らされ高野山に追放されました。長曾我部元親の自慢の跡取りである信親は、秀久の不味い指揮下で命を落としましたが、司馬遼太郎は『夏草の賊』という小説でこの経緯と、その後元親が落胆し盛親を後継に指名、長曾我部家の将来が暗転していく展開を書きました。


一方秀久はその後小田原攻めで活躍し大名に復帰、幕藩体制に入り信州小諸藩(その後上田藩)6万石を領します。玄孫の政明の代で、但馬出石に国替えとなり、やはり蕎麦職人を連れていきました。出石蕎麦は5皿に小ぶりに盛られて出てくるもので、地元ではわんこそば形式での大食い大会も開催されているようです。天空の城や志賀直哉の城崎温泉、中世山名氏の遺跡等々見どころも多く是非近々訪れたいものです。冬場の蟹も忘れていけませんね。 


数か月前に訪れた、甲州天目山栖雲寺には蕎麦切り発祥の地の碑が建って居り、なるほど山梨県が発祥かと思ってましたら、WEBをチェックすると長野県塩尻がそうだという記事も出てきます。蕎麦の歴史については全く疎いですが、美味しい蕎麦屋さんの探求については引き続き努力をしていきたいと思います。

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