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戦国公卿サバイバル寄宿作戦 ~ 大内氏、今川氏他


別稿で自家荘園に土着し、戦国大名化した公家の話を書きましたが、有力大名を頼り地方に落ち延びていく公家も多くいました。公家にはそれぞれ家格があり、それぞれ最高どこまでの官職につけられるか原則が決められてましたが、筆頭は摂政・関白に任ぜられる摂関家、次のレイヤーが太政大臣まで出世できる清華家でした。

 

室町・戦国期、社会の秩序が徐々に荒廃していく中でも、地方の有力大名の中には京文化への憧れや権威付けとして官位を欲する者は少なからず居り、その代表例は周防の大内氏と言えます。特に大内義隆のいた山口では、摂関家出身の二条尹房や清華家の三条公頼他公家衆を住まわせ、京文化が花開いた事は周知の通りです。ところが戦乱の京から避難してきた彼らは、陶晴賢の謀反(大寧寺の乱)に巻き込まれ殺されました。


二条尹房は藤氏長者・関白を経験し、次男良豊と共に山口に招かれ6年程滞在していましたが事件に遭遇しました。既に長男晴豊に家督を譲ってましたので、二条家は京で家名を存続させていきます。

三条公頼はタイミングが悪く、大寧寺の乱の一ヶ月前に山口に赴き、殺されました。彼の娘は武田信玄の正室三条の方として有名ですが、息子がいなかった為三条家は一旦断絶となりました。その後、分家の三条西家から跡取りが出て三条家は幕末を迎え、三条実美が活躍します。

 

冷泉為和も日本各地(駿河、能登、近江、相模、甲斐)に下向しました。家領のあった駿河で今川氏の庇護にあったようですが、冷泉家は和歌の権威であり、武田家や後北条家でも歌壇を指導する立場でした。

 





異能の存在として山科言継が挙げられます。典型的なマルチプレーヤーで家業の有職故実や笙、製薬だけではなく和歌や蹴鞠にも秀でており、酒宴の場持ちも良かったようで今なら優秀な商社マンになっていたと思います。彼はやはり逼迫していた朝廷財政の再建の為、有力大名からの献金に奔走し、多彩な人脈を誇りました。織田信秀家中への和歌・蹴鞠の伝授をしていた事もあり織田信長上洛後、信長・朝廷間の交渉役としても活躍しました。山科家は魚名流の分家で藤原北家の中でも亜流でしたが、山科家で初めて権大納言に昇進しました。後奈良・正親町天皇の時代、朝廷は貧しく、即位や改元の費用も事欠いてましたが、言継のお陰で何とか泰平の世に繋げる事ができたと言えるかもしれません。






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