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天文考古学~安倍晴明と藤原定家


現在放映されている『光る君へ』では安倍晴明をユースケ・サンタマリアが演じてます。かなり怪しげな容貌と役柄ですが、彼は陰陽寮という役所の官僚でした。邸宅は現晴明神社から近い土御門大路沿いに有った様でそこから20分程歩いて役所に通っていました。陰陽寮は4つの機能(陰陽道・天文・暦・時刻)があり元々はそれぞれ専門性の高いものだったようですが、菅原道真が遣唐使を止めて中国から陰陽五行説に係る最新情報が入らなくなって以降、日本独自の解釈や用途で朝廷で重宝される様になりました。10世紀を通じて占い・お祓い・天変地異の予見を包括的に解釈し請け負う組織になっていったようです。安部晴明は、賀茂忠行・保憲親子から陰陽道を学びましたが元々は天文の専門家で、以降賀茂氏と安倍氏が陰陽寮の幹部を交互に務めていくことになりました。陰陽寮は天武天皇が7世紀に設置し、1869年(明治二年)に廃止されましたが、朝廷の組織は中世以降殆ど実態が無くなっていましたが、暦と時間については19世紀まで専権事項でした。


先週の放映では兼家他公卿が連携し、専横を極める花山天皇が後継ぎを作らない様、安倍晴明に呪いをかけさせて女御忯子を殺してしまう話でしたが、史実としてはその後1年も経たないうちに花山天皇は出家し在位二年弱で譲位する事になりました。大鏡では、兼家の次男道兼が出家の手引きをし、翌日一条天皇が即位し兼家は念願の摂政に就任しました。その際に、安倍晴明が予め空の“天変”を観て天皇の交替の予兆を把握し、朝廷に報告しようとしますが既に手遅れである事を叫んだ事が書かれてます。



作花一志先生の『天変の解読者たち』では、天変に係る2説(木星のてんびん座α星への“犯”=天体同志の接近と、月が昴を隠した事)を取り上げてますが、夜空を見ながら星の運行を解釈する能力は陰陽道と相通ずるものだったと思われます。大鏡はこの事件から100年後に書かれた書物(白河院政期)であり晴明が事件を予見していたのかはわかりませんが、実際に起こった権力闘争やそれを正当化する為に陰陽寮が利用された事は有り得ると思います。ドラマでどう描かれるのか楽しみですね。過去の天文資料を天文学の知見から検証する学問を古天文学と読んだのは斎藤国治先生で、日食・彗星、古代建造物の形から歴史的事実を解き明かしていくもので学会もあるようです。

 









藤原定家はご存知の通り和歌の大家であり、勅撰和歌集の編纂を担い百人一首の選者でもありました。霊元天皇(1654-1732)も『人麻呂貫之が亡くなりたる跡には、ただ京極の黄門のみぞ』と書いてますが、黄門は唐の官名で中納言にあたり定家は京極中納言と呼ばれてました。和歌に秀でているとすると繊細で穏やかなイメージがありますが性格は短気で執念深かったようで、藤原家傍流(御子左家)出身で出世は遅かったもののしつこく公卿任官運動を続け長生きをして、承久の乱のお陰で中納言になれました。その割には目上の人にもずけずけものを言うタイプで、後鳥羽上皇から干された事もあります。又、18歳から74歳まで56年間、明月記と呼ばれる日記を残しており、そこでは多くの天文事象が記録されています。上記『天変の解読者たち』では中でも“客星”に係るエピソードが纏められてます。突然現れるので“客星”と称しますが、彗星や超新星の事を言います。明月記では1006年、1054年(かに星雲)、1181年のものが取り上げられており何れも超新星爆発でしたが、同時代の安倍泰俊(晴明8世の孫)から聞いたものを書いてました。1006年のものはなかでも最大級の明るさでマイナス8等級(満月がマイナス12.7等級)あり、日・月を除き一番明るい星でした。1006年は道長が着々と権力の頂点を登る途上で、この2年後に彰子が敦成親王を産む事になります。

 


自分が生きている間に超新星爆発を目にする事は無いかもしれませんが、一時期ベテルギウスがそろそろ爆発するという話はありましたね。地球との距離は約640光年あるので、足利義満の時代に爆発していればそろそろ見えるかもしれません。ハレー彗星は40年後の再来とすると、厳しいですね。先ず健康診断にいきましょう。

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