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醍醐家の親子の死と一つの日本近代史


終戦時の帝国海軍第六艦隊司令長官は、醍醐忠重侯爵でした。第六艦隊は主に潜水艦で構成されており、戦況が悪化する中1944年11月以降人間魚雷『回天』を投入し、終戦まで作戦行動を継続しました。同提督は45年5月に艦隊司令長官となり終戦を迎えたわけですが、既に稼働可能な潜水艦は9隻しかありませんでした。

終戦後、残された艦隊機密費を使い、回天搭乗者宅に弔辞と弔慰金を配りました。1947年オランダ当局によりポンティアナック事件に係る戦犯指名を受け、身柄をインドネシアに移され、裁判開始後10日余りで死刑判決を受け監獄に収攬されました。戦時中陸軍はジャワ、海軍はカリマンタンで軍政を敷きましたが、同事件はオランダ側が煽動するゲリラを鎮圧した事件で当時現地司令官だった醍醐が戦犯とされ、過酷な監獄生活を経て12名の銃手により銃殺されました。

 





忠重の父は忠敬侯爵で、甥の格太郎に銃で撃たれ死亡し、8歳だった忠重は親族の一条家に引き取られました。忠敬は病弱な兄忠告に代わり家督を継ぎましたが、忠告は事件の3年前に亡くなり、長男格太郎は乳母の息子の家に居候し多額の借金を背負い、次男賢次郎は台湾出兵時に既に戦死していました。

醍醐家はそもそも江戸初期に一条家から分家された家で、家禄は300石余りしかなく、ご本家(2千石余り)と比べてもかなり少なかったわけで、新興の家故にその他現金化できる資産も乏しく余裕が無かったと想像されます。一方五摂家に継ぐ清華家という高い家格を持ち、明治維新後は侯爵となりましたが、多少の一時金は貰うものの経済状態は厳しく、一族全体の面倒を見る事は難しい状況でした。

明治維新後の新政府の課題の中でも、旧支配者層(公家・大名・武士全般で大凡人口の5%)から父祖伝来の家禄=徴税権を取り上げて国家予算を如何に確保していくのかは最重要テーマでした。華族・士族の定義や秩禄処分、金禄公債への移行は維新後10年内で進められましたが、中世以来の身分制度の緩やかなフラット化と中央集権化は自ずと富の再配分を伴い、勝ち組と負け組が発生しました。


戦前、金銭面で余裕が無い子弟は軍人を志すケースが多かったですが、忠重も海軍兵学校を出て海軍軍人としてのキャリアを重ね、海軍大学校に行かず現場勤務を選び、マイナーな選択肢だった潜水艦指揮官として技量を高めていきました。通常の宮家や華族出身者の軍人とは異なり、こうした現場主義、部下への思い遣りや勤勉な人格は、彼が経験した特殊な家庭環境が影響しているではないかと思われます。

 











忠重は裁判では保身となる発言を一切せず、罪を一身に背負い死刑判決を受け入れましたが、遺書の最後に以下言葉を残しました。『何卒日本再建の各自の使命に全力を注がれ度し、私も霊界より又何遍も生れかはり、日本再建に全力を注ぐつもりです。私の部下の戦死者遺族達の事も心に留められ度し。』

怠惰に還暦を迎えた自分を恥ずるばかりです。 


1945年7月30日、広島・長崎への原子爆弾の主要部品を積んだ重巡洋艦インディアナポリスは、テニアン島で荷物を下ろした後レイテ島に移動中、橋本中佐指揮する潜水艦伊58に撃沈されました。







戦後、潜水艦からの攻撃を避けるべくジグザグ運動による回避を怠ったとして艦長(チャールズ・B・マクベイ3世大佐)は軍法会議にかけられました。橋本中佐は証言を求められ、”既に退避行動が無駄な距離にあり、艦長には非が無い”と擁護しましたが、結局有罪となり退役後自殺しました。















橋本中佐はその後同艦長の名誉回復に30年余り奔走し、遂に2000年、米国議会は彼に非が無い旨決議を行い、クリントン大統領がサインをしました。残念ながら橋本は大統領がサインする5日前に死去していました。上司(醍醐中将)も男なら、部下(橋本中佐)も男でした。

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