沼津の源平物語 ~DEC,2024~
どこから眺めた富士山が一番美しいのか静岡派と山梨派に意見が分かれる様ですが、内浦湾から臨む景色はなかなか味わい深いです。富士山は淡島と本土の間に聳えてますが、手前から駿河湾、沼津市街、愛鷹山と富士山が直線で並び、300年前に大爆発した宝永の噴火口がぽっかりと口を開けています。内浦湾から手前は旧戸田村で伊豆国に属していましたが、平成の大合併で沼津市に併合されましたので、いまや沼津市は駿河と伊豆に跨る大きな都市です。
以仁王の令旨をきっかけに源氏として最初に兵を立ち上げた源頼政は、宇治で嫡子仲綱と共に討たれましたが、側室の菖蒲御前は安芸に落ち延びたと言われています。一方で伊豆禅長寺に頼政と仲綱の遺骨を持ち運び隠棲したという伝説があり、頼政の末裔を称する高崎藩主松平(大河内)輝貞は元禄期に頼政堂を改築し寄進しました。菖蒲御前の出身は近所の伊豆長岡でした。
富士川の戦いで平家軍を蹴散らし、頼朝は黄瀬川辺りの宿舎に戻りましたが、面会を求めてきたのが奥州藤原氏に匿われていた義経でした。二人は感動の対面をしますが、対面石八幡神社に二人が腰かけた石があります。頼朝は近くの柿を頬張りましたが、渋柿で思わず種を吐き出しました。石の傍にはその時の種から育った柿の木もあり、説話を継承する遺跡の芸の細かさには感動します。周知のとおり、この五年後に頼朝は奥州征伐に出て義経は泰衡に殺されました。
常盤御前を母とする男子は、全成・義円・義経と三人居ました。平家追悼で大活躍をした義経が最も有名ですが、頼朝の信頼や処遇は全成が高かったと思われます。全成は北条時政の娘、政子の妹を妻とし駿河国阿野荘(沼津市西部)をもらい阿野全成と名乗りました。頼朝亡き後二代将軍頼家と北条家の間が険悪になる中、全成は舅の時政をサポートし頼家に捕らえられて常陸で誅殺されました。大泉寺には全成と四男時元の墓がありますが、当地は阿野家邸宅跡と言われています。武家の阿野家はその後衰退しましたが、全成の娘は公家の藤原公佐に嫁いでおり阿野公佐を名乗り、公家の阿野家は明治維新を無事迎えました。
沼津日吉神社は源平合戦から百年程遡る永長元年(1096)、関白師通が保有する大岡荘(沼津市東部)に勧請されました。前年に起きた源義綱と延暦寺/日吉社とのトラブルの後、師通は急死しましたが、これを呪詛されたと考えた母親(京極北政所)が日吉社の分霊を呼んだものになります。義綱は前九年の役で活躍した頼義の次男であり、長男の義家(足利、新田氏祖)、三男の義国(常陸源氏)とは異なり関白家に仕え京で出世を目指しましたが、後に義国の陰謀により一族は滅ぼされました。摂関政治の終焉、白河院政が始まるマイルストーンに重なり、関東平野における源氏の土着化と併せて武家社会への転換期を象徴するものになります。
時代は下り鎌倉幕府が倒れ後醍醐天皇の親政期、各地を転戦し征夷大将軍として声望を集めていた護良親王は次第に後醍醐天皇から嫉妬され、足利尊氏の讒言もあり鎌倉に流罪となり、足利直義に殺されました。親王のお世話をしていた側室の南の方は、親王の首を抱え東海道を西に急ぎましたが、黄瀬川が氾濫し已む無く楠の木の下に塚を造り葬りました。智方神社の境内にある小さな祠に護良親王は祀られていますが、その傍には大きな楠が立ってます。因みに吉野に移った後醍醐天皇は、皇位を後村上天皇に譲りましたが母は寵姫阿野簾子、即ち上述阿野全成の子孫になります。井上靖は旧制沼津中学通学時、よくこの木の下で休んでいたようです。
富士山は有史以来十度噴火を起こしましたが、宝永以来三百年程平穏な姿を見せてくれています。宝永四年(1707)という年は宝永大噴火の49日前には南海トラフ全域に渡る断層破壊による宝永大地震も起きており、二つの大災害が短期間で発生した災害の年でした。噴火も地震も地球の大きな地殻変動のダイナミクスの中では微々たるかすり傷に過ぎませんが、日本人はこれらを独特の諦観で捉え神様に祈り続けてきました。沼津から三島方面に暫く車を走らせると溶岩流の上にお稲荷さんを勧請した割狐塚稲荷神社があります。一万年前の溶岩流がドーム状に膨らんでできた小さな丘に建てられており、いざ大噴火となるとどこまで溶岩が流れるのか警鐘になりますね。
沼津は武田と北条の激戦地であり、家康の母伝通院の実家である水野家の沼津藩があり、臨済宗中興の祖白隠禅師ゆかりの地でした。幕末には露国プチャーチン提督一行が安政東海地震で遭難し、救出保護された地でもあります。温泉も素晴らしくリピートしたいと思います。
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