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深谷といえば ~ AUG,2024

深谷といえばねぎと新一万円札の渋沢栄一翁です。“晴天を衝け”が大河ドラマで放映されたのは既に3年前になりますが、今回高額紙幣での登用となり翁の名声は未だ絶大です。栄一の故郷は血洗島(ちあらいじま)というおどろおどろしい名前になりますが、由来ははっきりわかっていない様です。このあたりは山内・扇谷両上杉家の激戦地でありますし、戦場で死傷者の血を洗ったという故実があっても不思議でないですが、アイヌ語の『岸』を意味する言葉からきているとの説もあり、成程すぐ側を利根川が流れてます。 


栄一の生家は『中の家』と呼ばれ、清水建設が3年かけて大改修をして2年前から公開されてます。渋沢栄一の遺産はこの町最大の観光資源ですが、中でもこの家と1kmも離れていない渋沢栄一記念館を訪れれば翁の偉業や人柄が略把握できると思います。彼は1840年生まれであり、高崎城での決起を諦め尊王攘夷に身を投じ京に向かった時は既に妻帯の22歳でした。その後慶喜に仕え幕臣となり、徳川昭武に従い訪欧使節団に参加し、大政奉還後慶喜と共に静岡に赴きましたが、新政府に呼ばれた後政界・財界の寵児として明治日本を牽引するのは衆知の通りです。郷里でしっかりと論語・四書五経を学び人としての体幹ができていた点、健康に恵まれ長寿を楽しんだ点で、若い明治日本の中でとりわけ存在感を示せたのだと思いますが、同じ幕臣で将来を嘱望された小栗忠順の不遇の死を思うと栄一の出自や尊王攘夷の渦中に一旦は身を置いた事が却って幸運だったと想像できます。 


従兄弟であり先生でもあった尾高惇忠の生家も1km余り、ここの二階に高崎城の襲撃を密談するも惇忠の弟に説得され断念した部屋が有ります。長閑な田園地帯の一角ですが、こうした農民階級が教養を身に着け剣を学ぶ文化が有ったのが日本の封建社会の特徴であり、現代に繋がる民度の高さの基盤になっていると思います。願わくばこれ以上落ちない事を祈ってます。。

 


栄一は地元に煉瓦製造工場(旧日本煉瓦製造株式会社)を造りましたが未だ2006年に廃業したばかりです。原料となる粘土の質が高く、利根川の海運を使える同地で始めたわけですが近代日本の有名な建築物(東京駅、司法省、東大、日銀、赤坂離宮他)や鉄道高架等で広く使われました。折角見に行きましたが残念ながら唯一残る6号炉は改修中で、外から眺めるだけでした。深谷駅は東京駅を模倣した煉瓦でできた駅舎でこの町は東京への煉瓦供給拠点でした。ねぎだけではありません。 


駅の側には線路沿いに瀧宮神社が佇みますが、荒川の豊かな伏流水が流れる小川と池が美しいです。15世紀に上杉(山内)房顕が深谷城を造った際に城の裏鬼門として勧請した様ですが、深谷城は線路の反対側に公園として残されてます。房顕は余り戦が強くなく山内家衰退のきっかけを作りましたが、上野(群馬県)・越後(新潟県)を基盤とする関東管領山内上杉家の重要前線基地でした。次世代に扇谷家の家宰だった太田道灌が登場し、古河公方と両上杉家の覇権争いは激化していきます。


深谷には七福神と秋の七草をそれぞれ象徴とする寺が指定され七寺巡りができます。市内全域に点在しており歩くのは大変であり、車で回遊しました。秋の七草を愛でるには少し早すぎた訪問でしたが、何れも七福神の仏像に加え植えている花々を見るのも楽しく、墓地も大切に管理されている様で地元の深い信仰を感じます。関東平野は特にそうですが、ここも庚申塚と板碑が多いですね。板碑は鎌倉・室町期、庚申塚は江戸のものが多いですが、中世・近世を通じこれだけの仏教文化を支えた地域の文化度や経済力を感じます。


さて現代日本のヒーローが渋沢栄一なら、中世武士の鑑といえば畠山重忠です。父親の重能は秩父から当地の荘官に動き畠山氏を名乗りましたが、大蔵合戦では源義平に従い義賢を殺害しました。平家物語では、義平から義賢の2歳の幼子を殺す様命じられましたが見逃し、幼子は斎藤実盛に抱かれ木曽に逃れ、後に朝日将軍義仲となりました。 




名門秩父平氏出身で人格・武勇優れ人望厚かった重忠は頼朝挙兵当初は平家方で戦いますが、頼朝が房総半島で勢力を増やし武蔵に入るところで降伏しました。降伏の仕方も粋で、100年以上前に先祖の平武綱が八幡太郎義家からもらった白旗を持参しました。氏素性の怪しい自称平氏の北条氏にすれば本家本元の平氏である畠山重忠は嫉妬の対象であり、関東武士をいつでも糾合しうる名声を備え脅威でもありました。頼朝の死後6年経ち、北条義時に滅ぼされる事になりましたが、畠山氏居館跡は公園となり、6基の五輪塔が祀られてます。

 









先般訪れた幡羅郡郡衙も良かったですが、ここにも中宿遺跡という郡衙倉庫(正倉院)跡があります。広がる田園地帯は恐らく千数百年変わってないのでしょう。お陰様で古墳も中世・近世の遺跡も同じ空間で楽しめる事ができます。国分寺市でも一部鎌倉街道の痕跡が有りますが、ここでは田んぼのあぜ道に普通に掲示されてました。新田義貞もここを駆け抜け鎌倉に向かいました。




市のマスコットはネギの角を持つ”ふっかちゃん”。兎のような鹿のようなものらしいですが、渋沢栄一にも畠山重忠にも似てません。

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