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酷暑の浜松 ~2024年7月


京に近い琵琶湖を擁する国が近江、遠い浜名湖を抱く静岡県西部は遠江(とおとうみ)と呼ばれていました。浜名湖は元々琵琶湖同様淡水湖でしたが、明応七年(1498)の大地震で太平洋と湖を隔てていた砂州が崩壊した結果、海水と淡水が混ざる汽水湖となりました。“500年以上前”に決壊した地点は以来今切(いまぎれ)と呼ばれ東海道の渡し場となり、西側には江戸幕府が直轄の関所を設けました(新居関所)。


元禄の泰平の世となり、当関所は三河吉田藩(豊橋)の管轄となり幕末を迎えました。関所として幕末の遺構が現存しているのはここだけらしく、船着き場の再現も試みられてます。東海道線と新幹線がすぐ隣を走っており、幾度もここを高速で往復してきましたがこれまで気が付きませんでした。





関所近くには日蓮宗の名刹本興寺があります。こちらは譜代大名でその後老中にもなった久世重之が、元禄期に吉田藩主となり城の門や建物を移築しており、小堀遠州作庭の庭や谷文晁の絵と共に見どころ多いです。加えて現在、室町期書写された本興寺版源氏物語が展示されており、お得感満載です。

 




インターを降りて、先ずは見晴らしのいいところに行きたいと思い秋葉山本宮秋葉神社(上社)にやってきました。全国に400以上ある秋葉神社の総本宮ですが、800メートルを超える山中に巨大な社が連なり壮観です。本殿からは天竜川とその先に横たわる遠州灘を臨む事が出来ます。当社は上社と下社が有り、両方お詣りするには車で20km以上移動する必要がありますが、片詣りはいけないと思い両方お邪魔致しました。天竜川の起点は諏訪湖で以前見に行った事が有りますが、伊那谷をまっすぐ下り南アルプスの水を集めて大河になる様は、北上するフィリピンプレートの影響で隆起する陸地を雲に見立てれば、成程それに切り込んでいく龍の如しです。 


秋葉山から浜名湖方面へ山を下っていくと、2017年に大河ドラマで取り上げられた井伊氏の領地、井伊谷(いいのや)が広がります。私はその前年度から米国ヒューストンに駐在し、2016年は真田丸を毎週視るのを楽しみにしてましたが、その余韻が強すぎたせいか次年度の女城主直虎は余り視聴する機会も少なく、それ程印象に残っていません。今回井伊家菩提寺の龍潭寺を訪れ大変その事を後悔致しましたが、天下人が往来する東海道の重要拠点で千年生き残り、歴史的に重要な足跡を残した家は稀です。

江戸期、流石彦根藩井伊家が祖先のルーツとして保護しただけあって庭園を含め立派な佇まいでした。廃仏毀釈時に近所の子供たちが傷つけたという丈六仏も感慨深いものがありました。

 







南北朝期井伊家12代行直は、奥州に向かう途上で難破・座礁した宗良親王を奉じ南朝方として戦いました。南朝方は劣勢の時代が長かったですが、同親王は下伊那(現長野県大鹿村)を拠点に信濃・遠江を中心に戦い抜きますが、母親(二条家)の影響もあり歌人としても有名で訪れた各地で歌を詠んでます(李花集)。龍潭寺の側にある井伊谷宮(神社)では宗良親王が祭られており、入り口には沢山の風鈴が飾られてました。 


井伊氏一族の奥山氏は、宗良親王の異母兄弟で元に留学していた無文元選を呼び方広寺を開山しました。谷間から突如現われる大伽藍に圧倒されましたが、室町期に一旦衰退したものの徳川家康が保護を加え、今日の威容となっているようです。







大伽藍もさることながら、境内至るところに小さな羅漢・地蔵仏が数多く並べられており癒されました。一つの谷が寺院と一体化しており、紅葉の時期は素晴らしい景色が楽しめるようです。お寺の掲示板にいい言葉が書いてありました。肝に銘じます。 ~『掛けた情けは水へ流し 受けた恩は石に刻む』

 




さて後醍醐天皇は、兄(後二条天皇)が早逝し兄の子供(邦良親王)が未だ幼少の為ピンチヒッターで皇位につきましたが、皇太子の邦良親王も亡くなり後二条天皇の皇統はその後木寺宮という世襲宮家として当座存続する事になりました。この邦良親王の子、康仁親王は南朝支配下にある遠江入野荘に下向し、龍雲寺を開山しました。当寺は後に三方ヶ原の戦いの際には武田方についた為、家康に攻められ全山焼失しました。


ここではダウン症の書家、金澤翔子の大きな般若心経の書を見る事ができます。浜名湖と繋がる佐鳴湖と隣接し風光明媚かつ由緒あるお寺ですが、拝観料は聴取されません。金澤祥子の御朱印も書置きで置いてあり頂いてきましたが、心をこめてお賽銭箱にお気持ちを入れて参りました。 





武田軍2万5千の兵は、浜松城の北10kmを家康を無視するが如くゆるゆると西へと進み、城にいた家康は1万の兵でそれを覆う様に鶴翼の陣で迎えうちます。武田軍をこのまま放置すると松平祖廟の地三河が蹂躙されるわけで、放っておける筈がありません。






信玄に堂々と野戦でチャレンジしたという事実が、その後の名声を確固たるものにしたという事でしょう。再建された天守閣は小ぶりですが、それらを支える野面積みの石垣に、天正壬午の乱以降領土を急拡大していく徳川家の気合を感じました。

 





天竜川を越えて磐田市に入り行興寺を訪れ、今回の浜松詣での最後としました。ここは平宗盛の愛妾、熊野御前が植えた大きな藤が広く拡がっています。樹齢850年という事になります。

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