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小栗上野介忠順詣で  MAR,2024


興国寺城主天野康景の稿で取り上げましたが、群馬県高崎市に在る小栗上野介故地を訪ねました。小栗家は家康祖父(広忠)の代から松平家に仕えた譜代の臣であり、子孫は幾つか旗本の家や越前松平家の家臣として明治維新まで存続しました。忠順はその中でも宗家である又一小栗家の出身であり、幕末の退廃した幕臣達の中では秀逸な存在だったといえます。明治維新が近代日本を作る転機であった事は疑念の余地が有りませんが、そこに至る幕末の近代化政策を小栗が指揮し、そのビジョンの多くが新政府によって採り入れられた点は再評価されるべきだと思います。


西郷隆盛も渋沢栄一もいいですが、次の幕末をテーマにした大河ドラマは小栗忠順の一押しです。数年前にワシントンDCに出張した際、小栗が参加した遣米使節が宿泊したWillard Hotelに宿泊する機会を得ましたが、日本の使節団が訪れた歴史も記されており感動致しました。














小栗の功績は列挙すると大変ですが、外国奉行・勘定奉行を務め、横須賀製鉄所・関税率や通貨交換比率の改定交渉・財政再建・民間資本の活用と商社の設立・築地ホテル・陸海軍の近代化他、枚挙に暇がありません。厳しい財政状況の下、斜陽の江戸幕府の中で一人気を吐いていたわけですが、江戸時代最後の8年間(上記遣米使節から明治維新)で次々と打ち出した施策が将に日本の近代化にとって重要な助走期間となったと言えます。


彼は単なる徳川家の忠臣ではなく、反対意見に対しては『幕府の命運に限りがあるとも、日本の命運に限りは無い』と諭し信念を通しました。悲劇が起こりましたのは維新前夜の慶應四年四月、彼は新政府軍により処刑されました。小栗は鳥羽伏見の戦いの後、開陽丸を用いた新政府軍への抗戦案が通らず御役御免となり、領地の一部である上州権田村に隠棲していましたが東善寺で捕縛され、取り調べもなく鳥川河原で斬首されました。



当時身ごもっていた奥さんは伝手を頼りながら会津に逃げ、藩主容保の配慮あり鶴ヶ城攻防戦前夜の野戦病院で国子を産みました。妻が小栗家の親族だった大隈重信はその後家族を引き取り小栗家を再興し、『明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない』と語りました。又、東郷平八郎は後に小栗家家族を自宅に招き、『日本海海戦に勝利できたのは製鉄所、造船所を建設した小栗公のお陰である』と礼を述べて書を贈りました。東禅寺で現物を見させて頂きました。



チェスター・ニミッツは日本海海戦後、少尉候補生として日本に寄港し東郷平八郎と面談する機会を得、以来東郷を生涯尊敬し、太平洋戦争後故郷の自宅(テキサス州フレデリックスバーグ)に東郷の遺品を移し東郷神社を勧請しました。私が住んでいたヒューストンからは車で五時間要するドイツ系移民の小さな町ですが、中には日本庭園もあります。隣の全米太平洋博物館と共に、日本の近代と日米関係を考える機会になり日本人が訪れるべき名所の一つです。

ワシントン造船所に学び横須賀造船所を造った忠順は東郷に勝利を齎し、東郷から学んだニミッツは日本海軍を滅ぼしたわけですが、現代日本を造った因果を作る重要人物の一人として小栗忠順の存在は記憶に留めておきたいと思います。

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