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古河公方館 2020年11月


源氏にとって鎌倉は大変由緒ある土地です。前九年の役で活躍した源頼義は平直方の婿になりますが、その縁で東国の拠点として鎌倉の屋敷をもらいました。彼は東北から凱旋した帰りに、石清水八幡宮を勧請し由比八幡宮を造りますが、これが後の鶴岡八幡宮となります。その後義朝はここで屋敷を持ち、頼朝は幕府を開くわけですが、源氏嫡流を自認する足利家にとっても重要な場所でした。



鎌倉公方は2代将軍義詮の同腹の弟、基氏を初代として1349年に鎌倉府を置いて始まります。室町将軍家へのライバル心は歴代強く、4代持氏はこれを軽んじて独立の動きを見せた事で関東管領上杉憲実に滅ぼされます。この後、持氏の遺児で生き残った成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺し古河に御所を作り(享徳の乱)、以降古河公方家は成氏以降政氏・高基・晴氏・義氏と5代130年続き関東平野で戦国時代を生き抜いていきます。義氏は娘(氏姫)はいたものの後継がいないまま死去(1583)し、小田原征伐後秀吉が名流の血統が途絶えるのを惜しみ、高基の弟義明(小弓公方)の孫の国朝を氏姫の婿として公方家を復活させ、下野喜連川に封じます。徳川家康はこれを引き継ぎました。


結局国朝は早逝し、弟頼氏が氏姫と再婚し後継者(義親)を儲けますが、頼氏は喜連川に移るものの氏姫・義親はそのまま古河に住み続け、孫の尊信は頼氏が亡くなった事を契機にやっと喜連川に移ったとのことです(1630年)。氏姫とその子達は徳川体制下に置いても公方家のプライドを捨てず、父祖伝来の土地から離れる気は無かったようです。

徳川家の気の使い方は尋常でなく、同家は主従関係にはなく客分扱いであり、参勤交代・賦役等の負担は無く、5千石ながら10万石格の大名として家格が設定されました。そして喜連川家は明治維新後、姓を足利に戻しました。


古河公方館跡は江戸期には古河城が建てられ古河藩領となりますが、流石関東全域を束ねた屋敷跡であり公園になった敷地は広大です。

成氏は鎌倉からこの地に寺社を幾つか移したようですが、次回じっくり訪ねてみたいと思います。


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