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東から西に転勤した島津と毛利、西から東に転勤した伊勢宗瑞

戦国大名の雄として名を馳せた家は成り上がり系が多いですが、鎌倉幕府の名門御家人、室町幕府の官僚が転勤し、国人化したケースも多いです。下剋上の世の中になったとはいえ、名族も成り上がった家も引き続き朝廷の権威を利用するべく官位を頂き氏(源平藤橘)を名乗り、時には家系図をいじり自家を正当化してきたわけで、日本史の一貫性は天皇制の下担保されてきた側面は大きいです。


島津荘は藤原頼通への寄進から始まり徐々に規模が拡大し、薩摩・大隅・日向三国を跨ぐ日本最大規模の荘園になりました。惟宗忠久は摂関家嫡流近衛家の家司であると共に鎌倉御家人でもあり、頼朝から同荘の荘官、三国の守護に任じられ“島津”を名乗ります。実際に現地赴任するのは4代忠宗からで、5代貞久は後醍醐天皇が挙兵した際にこれに味方し、鎮西探題を攻撃しました。頼朝からもらった三国の統治権は、比企の乱(1203)以後二国が得宗家に奪われ薩摩一国に押し込めらていたので、島津家としては当然の行動でした。惟宗氏は元は秦氏で帰化人が由来ですが、島津家は忠久を頼朝の子として後に清和源氏を自称します。母親は丹後局(頼朝の乳母比企尼の娘)で、安達盛長と結婚する前に惟宗広言との間に忠久を産みましたが、実親は頼朝だったという設定であり、頼朝の好色なキャラクターと相俟ってけして無理なストーリーでもない様に見えます。

島津荘は摂関家で保有された後、一旦平家に奪われましたがその時に荘官を任せられたのが肝付氏です。古代からの名族大伴氏(淳和天皇以降”大”が取れて伴氏)の子孫であり、地方官僚として薩摩に赴任し肝付を名乗り巨大荘園の現場を仕切りますが、上述平家の没落を契機に島津家にその立場を奪われる事になります。整理すると、荘園を開拓した平季基他(桓武平氏)→肝付氏→島津氏と統治者は変遷しました。


毛利氏も御家人として安芸に転勤しましたが、元は相模国毛利荘出身、今の厚木市近辺の荘官・御家人であり、旧姓大江氏、即ち鎌倉幕府行政を担った中級貴族です。大江広元は文官として頼朝を支えましたが、一族は承久の乱・宝治合戦で失脚しながらも日本各地に分散し、伊達家と争った出羽の長井家、京で宮廷官僚として残った北小路家、そして”中国の雄”毛利家として中世・近代の日本史で存在感を示してきました。

鎌倉御家人が西に転勤した例で有名なのは他に、大友氏(相模国大友郷→豊後)、少弐氏(元武藤氏)、伊東氏(伊豆国田方郡)が挙げられます。承久の乱以降幕府の統治範囲が日本全体に及んだ事や、元寇対応もあり、中世武家勢力が移動・配置転換し新たな統治システムに代替されていく過程は、大和朝廷発足以来の大きな変化だったように思えます。



















時代は異なりますが西から東に転勤して戦国大名になったのは小田原北条氏です。時代は室町になりますが、伊勢氏は壇ノ浦で滅んだ家と同流の伊勢平氏であり、室町幕府の執事を世襲しその分家の備中伊勢氏出身が北条早雲(伊勢盛時)です。本貫は備中ですが、盛時は将軍家に仕えた官僚であり、姉が嫁いだ今川家の家督相続問題で駿河に下向し調停します。北条早雲はつい二三十年前までは一介の素浪人という扱いでしたが、斎藤道三もしかり、中世史は特にフィクションで固定観念が出来上がっていたものが徐々に実像が判明しつつあり楽しみですね。

その後盛時は姉の産んだ龍王丸(今川氏親)に無事家督を継がせ、興国寺城を預かり伊豆・相模に侵攻していく事になりますが、自身は北条氏を名乗った事は一度も無く息子の氏綱の代から名乗りました。関東平野で覇を唱えるには、”北条”の名前の方が良かったわけですが、勝手に名乗ったわけでなく幕府・朝廷の承認を得たものであり、官位も鎌倉北条家に倣い以後後継者は左京大夫・相模守をもらいました。流石京の官僚出身の家でしっかり手続きを踏んでます。因みに毛利と争った尼子氏も室町期に近江から出雲(守護代)に動いた転勤族でした。

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