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道鏡は悪人だったのか


栃木県に下野薬師寺と呼ばれる古代寺院跡があります。第46代孝謙天皇(重祚し称徳天皇)崩御後、道鏡は造下野薬師寺別当として左遷されこの地で没しました。

天武天皇の後、皇位は天武系で継承されていきますが、聖武天皇は男子後継者に恵まれず娘の孝謙女帝が即位しました。我が国は女系天皇は認めませんので、彼女の使命は独身を通し、皇族から適当な男子継承者を決める事にありました。彼女は本命サラブレッドである草壁皇子(両親は天武・持統両帝)の末裔でしたが同系には候補者は居らず、藤原仲麻呂の薦めもあり、舎人皇子の皇子大炊王(淳仁天皇・淡路廃帝)に皇位を譲ります。一連の政局は、天智系と天武系、藤原氏の政権抗争(光明子と南家・北家・式家)、孝謙帝の贔屓筋(仲麻呂、道鏡)を軸に動いていきます。結果仲麻呂の乱(764)、宇佐八幡宮神託事件(769)、孝謙(称徳)帝崩御(770)を経て、道鏡は失脚しました。


道鏡は日本三悪人(平将門、足利尊氏)の一人だそうで、何れも皇位簒奪当事者かそれに深く関わったのが理由だと思いますが、将門・尊氏は結構人気が有るのに道鏡だけ暗いイメージがあるのは恐らく女帝をたぶらかしたという悪評故でしょう。

孝謙天皇と仲麻呂、道鏡の話は、秦の始皇帝の母と呂不韋・嫪(ろう)あいの話と被ります。異なる点は、仲麻呂と道鏡が敵対関係だったのに対し、呂不韋は嫪あいを斡旋したという経緯と、呂不韋は流石に帝位迄狙う事は無かったという点でしょうか。

道鏡は中流貴族弓削氏の出身、頂点を極めた70歳前後の分別ある老僧が、大和朝廷発足時からの歴代の名族や台頭著しい藤原氏に囲まれた中で、女帝の寵愛だけで本気で皇位を継承できると思っていたのか、私には信じられない気がします。

彼は晩年、自分に皇位を渡そうとする女帝に当惑し、しかるべき人達と相談してたのではないですかね。皇位簒奪は重罪であり、孝謙帝崩御後、一族は流刑になり、本人も下野に下りますがとはいえ下野薬師寺は大変な名門寺院です。

奈良朝期では、日本三戒壇(他は東大寺と太宰府の観世音寺)の一つで、東日本で唯一僧侶の免許を渡せる場所でした。道鏡は彼の地で二年過ごして没したようですが、名僧としての一定の名誉は守られながら天寿を全うしたと思われます。


現在下野薬師寺は、後継の安国寺(最近薬師寺と改名)の側で大伽藍の跡が横たわっており、発掘を通じて寺院の威容は解明されつつあるようです。

蛇足ですが、道鏡と嫪あいは巨根で双方有名になってしまいました。江戸期の川柳では『道鏡は すわるとひざが 三つでき』というものもあります。そろそろ名誉回復してあげたいなと思います。

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