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足利将軍家末裔の処遇

秀吉は下野喜連川(栃木県)に領地を与え、鎌倉公方由来の足利家の存続を許しましたが、徳川家はこれを引き継いで領地は5千石ですが、10万石格式の家として遇し、明治維新に至りました。

因みに最後の藩主喜連川縄氏は、維新後“足利”に復姓しますが、実父は水戸藩徳川斉昭公です。


一方ご本家室町将軍家の場合、13代義輝、14代義栄、15代義昭それぞれ子孫の中で大名に遇されたケースは有りませんでした。

最後の将軍義昭が信長の癇に障り京を追放された1573年を以って室町幕府の滅亡とされてますが、実際彼が将軍職を返上したのは1588年であり、当時秀吉の御伽衆として厚遇を受けていました。秀吉は九州侵攻時、関白秀吉と将軍義昭の連名で島津に降伏勧告を促します。信長に人質で出されていた嫡子義尋は還俗して子供を作りましたが何れも仏門に入った為嫡流は途絶えます。その他、自称義昭庶子として、会津・薩摩・柳川藩士となった家が有りますが、明確な証拠は無いようです。


13代義輝の場合は嫡子が居ましたが早逝し、永禄の変(1565)で討たれてしまいました。その際に、懐妊していた側室(烏丸氏)が讃岐に逃れ横井城主尾池氏に匿われ養子として尾池義辰を名乗り、その後讃岐藩(生駒氏)経由、熊本藩細川忠利に客将(禄2千石)として招かれました。細川家は12世紀に分かれた由緒ある足利一門である点、祖父の幽斎(藤孝)は義輝に仕えていた幕臣であった点に鑑みると、この義輝落胤説は信憑性が高いのではないかと思います。義辰の子息は西山を名乗り幕末に至りますが、足利を名乗ったのかどうかは確認できていません。


14代将軍義栄は父が義維(12代将軍義晴弟)であり、義輝・義昭の従兄弟にあたります。三好勢、松永久秀、織田信長の政争に翻弄され、将軍宣旨を受けながらも京に入れなかった不幸な将軍として有名ですが、その後義栄の弟に継がれて阿波平島に逼塞した事から平島公方と呼ばれました。この家にとって残念だったのは、秀吉の四国征伐後長曾我部家からは一定の処遇を受けていたものが、蜂須賀家が阿波に入った途端に6千石の所領を没収され、僅か100石に落とされました。新たな支配者にとって、旧い権威は邪魔だったのでしょうか。漸く宝暦・明和年間(18世紀後半)に佐竹分家から養子に入った蜂須賀重喜は一気に千石以上に加増しますが、重喜の死後平島家当主義根は京都に移住し阿波徳島藩を脱藩します。維新後、14代義栄の家系は華族・士族にも入らず、今日に至っているようです。細川家(及び佐竹家出身の殿様)と蜂須賀家の公方家の扱いに大きな差を感じますが、同じ足利一門・河内源氏といった同族意識の有無も要因なのかもしれません。


後年明治天皇が蜂須賀茂韶侯爵と会った際、天皇は愛用の煙草が1本無くなっている事に気づかれ『血は争えぬのう』と揶揄われた様ですが、なるほど太閤記では蜂須賀小六は夜盗でした。もっとも、茂韶侯爵は徳川家斉の孫で、父の代で養子に入った家なのでとばっちりなのですが。

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