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興国寺城を退去した天野康景、権田村に退いた小栗忠順


興国寺城は北条早雲が世に出た城として有名です。続日本100名城で訪れた城好きも多いでしょうが私もその一人です。

ここではもう一人の興国寺城主、天野康景を取り上げます。康景は幼い頃から一貫して家康に仕え、三河一向一揆の時も家康を支えましたが晩年興国寺藩1万石の領主の座を捨てて出奔し、改易となりました。関ケ原の戦いでは江戸で留守居をした功により藩主となりましたが、裏方の仕事も嫌がらずしっかりやる仁だったと思います。こういう人間がいる組織は強いですが、徳川家も大きくなり、彼の価値を正しく評価できなくなっていたのでしょうか。


興国寺領に隣接した天領の領民が竹木を盗み、康景の家臣がこれを成敗した事で天領代官は家康に訴えでます。家康は本多正純に対応を命じ、正純は康景に家臣を引き出す用求めますが康景はこれを拒絶、息子と共に出奔しました。一向一揆の時は宗旨を変えてでも家康に従った男が何故老境に入り主を捨てたのか。自領に侵入した盗賊を切り捨てた部下をどうして咎める事が出来るようかという義憤、正純如きに差配させて直接事情を聞いてこない家康への不満、等有ったのかなと想像します。徳川の天下取りを裏方で支えてきた康景が求めていたのは、親分の信頼だったのではないですかね。








康景の娘は同じ三河時代からの譜代衆、小栗忠政に嫁ぎますが、幕末期の子孫が小栗忠順です。

忠順の偉大な業績を書くのは小稿では不十分ですが、外国奉行・勘定奉行を歴任し、日米通商修好条約を交渉し、厳しい財政再建に取り組みつつも、洋式軍隊・製鉄所を建設・主導しました。大隈重信をして『明治政府の近代化政策は小栗忠順の模倣に過ぎない』、東郷平八郎をして『日本海海戦の勝利は小栗忠順のおかげ』と言わしめた仁であり、是非近々大河ドラマで取り上げてもらいたいものです。

小栗は薩長への徹底抗戦を主張するも幕閣に受け入れずに勘定奉行職を解かれ、自ら権田村(現高崎市)の領地に帰り塾を開いて暮らしました。3か月後官軍に襲われ斬首されますが、母と身重の妻を逃がして淡々と潔く逝ったようです。

長く続いた泰平の世、世襲で続いた緩い組織でも、国家の危機に際し天才が舵を取ればここまで変えられるという事を証明しましたが、これも佳き理解者(家茂)がいたからこそです。

士は己を知る者の為に死す ー 康景も忠順もしっかり血のつながりを感じます。


康景の息子康宗はその後赦され、旗本として取り立てられます。又忠順の死後生まれた国子は、大隈重信に引き取られ、婿養子を取り小栗家を再興しました。


”人と煙草の良し悪しは 煙となって後の世に知る”


本当は煙になる前に活躍してもらいたいものです。

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