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どちらが本当の義光だろうか


東名大井松田を降り県境に向けて山道を走ると足柄峠に辿り着きます。周辺部は万葉公園という散策路もあるようですが、私は峠にある足柄城から見える富士山が好きで晴れた日を狙い偶に訪れます。この当たりは旧い官道で、千年前は東海道を往来する人々で賑わった事でしょう。





小さな駐車場の脇に“新羅三郎義光吹笙之石”と書かれた碑と、程よく座りごこちが良さそうな石が置いてありますが、13世紀に出来た古今著聞集に出てくる説話が由来です。

前九年の役(1051-1062)で名を馳せた源頼義の長男は八幡太郎義家、次男が賀茂次郎義綱、そして三男が新羅三郎義光といいます。何れも、母は桓武平氏平直方の娘であり、源平の血を継いだ軍事貴族のサラブレッドともいえます。八幡、賀茂、新羅はそれぞれ元服をした際の神社の名を示しており、神様のご加護が有りそうで強そうな名前ですね。

義光は後三年の役(1083-1087)で苦境に陥った兄義家を助けるべく東上しますが、足柄峠で豊原時秋がこれに追いつき従軍を乞います。義光はここで時秋の父時元から教わった笙の曲を伝えて、危険な戦に参加せず、京に帰り笙の奥義を守るように諭しました。文武両道で優しい武将の鏡です。












その後義光は戦後京に戻り復官しますが、源氏名物のどろどろとした跡目争いが起こります。源氏の棟梁は義家の後義忠が継ぎますがここで義忠暗殺事件が起こります。当初義綱の息子が犯人と断定され、義綱親子は白河法皇の追討を受け、義綱自身は佐渡に流され生涯を終えます(息子達は無実の罪を帰せられた事が納得できずに甲賀山中で次々と自害)。その後義光が黒幕だったという事が発覚し、彼は本拠地である常陸に逃亡し、河内源氏は為義が継ぎますが院政下で優遇される平氏との対比で厳しい時代(その後保元・平治の乱を経て平家の時代へ)を迎える事になります。

義光は三井寺の異母弟快誉と共謀し、自分が源氏の棟梁になるべく仕組んだとされていますが上述足柄山の話とくらべてかなり陰湿で、同じ人物には思えませんが真実は如何でしょう。

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