top of page

戦場で敵将の子供を預かる話

大坂夏の陣、真田幸村は最後の戦いの前に愛息・娘を敵方伊達政宗の先鋒片倉小十郎重長に預けました。これまでの戦闘を通じて重長の人となりを理解し、これに賭けてみました。徳川家に万一知られれば、少なくとも息子(大八2歳)は斬られる事必定の中、伊達政宗も片倉重長も頼られれば意気に感ずる人達だったのでしょうし、幸村という武将に対して大きな敬意を持っていたものと想像します。

大八は片倉守信と名乗り仙台藩士になり、二人の娘は一人は重長の室に、もう一人は田村家(政宗正室愛姫の実家)に輿入れさせ、幸村の期待に応えました。流石天下の伊達家であり、器が違います。一流は一流を知るのか、義を見てせざるは勇無きなりを実践したというべきでしょうか。


守信の片倉家は幕府の御咎めを受けないように細心の注意を払いながら、息子の辰信の時に真田姓に戻し幸村の家は仙台で幕末を迎えます。

幕末の仙台真田氏当主幸歓は藩主慶邦に大政奉還をもって至急官軍に就くべく建言するも受け入れられず同藩は戊辰戦争に突入しました。仙台藩は奥羽越列藩同盟の盟主の一つに祭り上げられた結果、戦後62万石は28万石に減封となり悲哀を味わいますが、幸歓氏は明治に入り学校教育の地方官として地元に尽くします。


文禄の役、宇喜多秀家は漢城で李朝家臣(両班文官)の孤児(金如鉄、当時7歳)を引き取り、日本に連れて帰ります。秀家の正室豪姫(前田利家娘)が当初預かり、その後前田家2代利長公の正室永姫(玉泉院・織田信長娘)が養育しました。その後加賀藩脇田家に婿入りし脇田直賢と名乗り、金沢町奉行を務め1500石の禄高をもらいました。金沢城の近く兼六園の麓にある屋敷ではその後子孫が美しい回遊庭園を造りましたが、今は“玉泉園”という料亭となり、見学する事が出来ます。


私も一度行きましたが、庭を歩いていると茶室の側に直賢が植えた大きな“朝鮮五葉松”が見えます。彼は隠居後、再び如鉄に名乗りを戻しましたが、木の成長を見ながら故郷や家族を偲んだ事でしょう。脇田家は明治迄この家に住まわれたそうです。


宇喜多秀家は関ケ原の敗戦後八丈島に流されましたが、豪姫は実家(金沢)に戻りました。加賀藩は江戸期を通じ二百数十年、八丈島の宇喜多家に定期的に仕送りをしていたそうです。


優しくなるには強さと豊かさが必要です。国も人も同じですね。

Comments


IMG_3037.JPG

来ていただきありがとうございます!

さまざまな歴史ブログを投稿中です。是非他の記事も購読ください。

  • Facebook
  • Instagram
  • Twitter
  • Pinterest
bottom of page