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大泉寺と恵林寺

武田信虎は信玄の父であり、混乱する甲斐を統一し、後の信州侵攻の基盤を作った名将でした。娘を今川義元に嫁がせていましたが、1541年に義元に会いに駿府へ赴いた際に信玄により国境は封鎖され、駿府での隠居生活を余儀なくされました。もっとも駿河では当主の舅殿として厚遇され、甲府からも仕送りがあり、側室との間には後に家督を継がせる信友や菊亭晴季に嫁がせる子供達もできました。

桶狭間の2年前(1558年)に京都に動き、以来基本的には将軍家(義輝・義昭)に伺候しますが、信長の義昭追放(1573年)を経た後、息子の信廉(信玄弟)が守る高遠城に身を寄せます。室町将軍家が実質滅んだ事もあるでしょうが、息子信玄が前年西上作戦の途上で亡くなった事も武田領内に戻った理由の一つでしょう。

彼はその間三十年余り、信玄の覇業(信濃、駿府の領有、西上作戦)をどういう気持ちで観てきたでしょうか。私は武田の旗が京に翻り、息子(信玄)との再会する場面をわくわくどきどき待っていたような気がします。


高遠城では孫の勝頼に会えた様ですが、彼と何を話したはわかりません。父に続き力を蓄え京を目指せと叱咤激励したのか、巨大化する信長の勢力拡大に備え周辺国との協調を説いたのか知りたいですね。勝頼は、父が追放した祖父とどういう面持ちで会ったのか興味あります。信虎はその会見後間もなく亡くなり、自ら開いた大泉寺に葬られ32年ぶりに故郷に帰りました。


織田家が甲斐討伐の軍を起こしたのは1582年、信濃・甲斐を蹂躙し、勝頼・信勝親子を天目山で自決に追い込みます。信玄が眠る恵林寺快川和尚は降伏を拒否、寺は火を放たれますがその時発っした言葉『心頭滅却すれば火もまた涼し』は美しい山門に掲げられてます。織田信忠は、勝頼を裏切り降伏した小山田信茂、武田信堯を許さず、一族郎党を処刑しました。信堯は、上述信虎の駿河追放後にできた信友の息子でした。

家康は武田家への畏怖と尊敬が相当有ったのでしょうか、戦後積極的に武田の人材を登用していきます。高遠城は信廉の後、仁科盛信(信玄息子)が後を継ぎ、信忠侵攻後寡兵で数万の兵を堰き止めその責を果たしましたが盛信の息子達はその後幕府の旗本として高録で召し抱えられました。武田家臣だった柳沢家も徳川家に召し抱えられ、後に大老格として遇された吉保は甲斐15万石の太守となり、信玄百三十三回忌を幕府公認の下恵林寺で盛大に上げる事になります。


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