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20代を部屋住みで過ごして後、家督を継ぎ世に出る話 ~ 水戸斉昭と井伊直弼


明治維新前夜、攘夷・開国論のそれぞれ旗頭として激しく対立した二人は、何れも長く部屋住みの時代を過ごし、兄の死により表舞台に立つことになりました。部屋住みとは、養子にも行けず少禄をもらいながら万一に備えて囲われている跡取りのスペアのことを言いますが、いつ順番が回ってくるとの保証の無いまま、閑な時間を勉学や武芸、教養の蓄積に費やすのは余程の覚悟と胆力を要するものと思われます。国家を正しく経世し、危機に備えるという意味では両名とも名君であり、攘夷も開国も目指すところ“日本国をどう守るのか”という点、同じであったと思います。アヘン戦争を挟みその前後で世に出たこの2人は、明治維新に導かれる国家統一に向けた揺籃期に欠かせない存在だったと言えるのではないでしょうか。 


徳川斉昭公は、水戸藩8代藩主治紀公の三男であり、長兄の斉脩(なりのぶ)が藩主、次兄の松平頼恕(よりひろ)は高松藩の養子になりました。高松藩は光圀公の兄頼重が興した藩ですが、光圀は自分の息子を頼重の養子に出し、水戸藩の後継は頼重の息子に渡しましたが、水戸藩の支藩的な位置づけになります。水戸藩には宍戸藩という支藩もありましたが、こちらは弟の頼筠(よりかた)が継ぎましたので、斉昭は兄のスペアとして待機したわけです。その間、水戸学の権威会沢正志斎の薫陶を受け尊王攘夷の旗頭になるわけですが、興味深いのは単なる融通の効かない攘夷派ではなかったという事でしょう。好奇心が強く、知見を広く求め、弘道館の設立や偕楽園の整備といった教育・文化への造詣は固より、江戸防備の為大砲や弾薬を準備し、ペリー提督が持ち込んだコルト銃の生産を命じ、牛肉や牛乳を好物としました。又斉昭は大変な艶福家であり19男15女の父親であり、成人した息子の多くは日本各地の有力大名の養子に出ましたが、7男が15代将軍慶喜となります。 


井伊直弼は斉昭より15歳年下で、14代藩主直中の14男として生まれました。3男の兄直亮が藩主を継いだ後に生まれた子であり、11男の直元がスペアでいた為、一生部屋住みで過ごすリスクを抱えて20代を過ごしましたが、32歳のときに直元が亡くなり世子になり、35歳で漸く藩主となりました。斉昭公の会沢正志斎にあたる国学の先生は、在野にあった長野義言ですが、直弼は家督相続後彦根藩士としてこれを登用し、門人達で藩の要職を固めていきます。ペリー来航後、1850年代に幕府は二つの条約(和親条約、修好通商条約)を結び、これら不平等条約の軛は明治政府の大きな外交課題となったわけですが、一方で日本が欧米列強に追いつく為の大きなエネルギーになった事は確かであり、2人が亡くなる1860年までにイデオロギーとしての開国是非論は略終わり、その後明治維新迄の7年余りの時間は徳川幕府と新政府予備軍との間で政局論争の材料にされました。


2人の決定的な決裂は日米修好通商条約(1858年)が勅許無しで為された事で斉昭が越前・水戸・尾張藩主を引き連れて直弼を尋問すべく江戸城に登城した事件ですが、その後安政の大獄が始まり斉昭は永蟄居となり政治生命を絶たれました。1年半の後、桜田門外の変(1860年)で井伊直弼は殺されましたが、半年後斉昭も心筋梗塞でこの世を去ります。 


1840年代はアヘン戦争で始まり、1850年代は林則徐が亡くなり、ペリーの来航で始まり、1860年代は徳川斉昭と井伊直弼が亡くなり、明治維新を迎えます。この30年間に何を議論し、準備したのか、日本という国家にとっては重要なマイルストーンであった事は間違いありません。

徳川斉昭は、松平春嶽に宛て、(尊王攘夷の旗頭である自分にはできないが)貴方が開国をリードすべきと書面を送ったようです。封建社会の硬直した制度の中で敵味方に分かれましたが、斉昭・直弼を引き継ぐ次世代の人材を輩出できたのは、国家として僥倖でした。

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