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もう一つの赤穂浪士事件


入社したのはバブルの最盛期で毎日様々な宴席が有りましたが、その頃十八番で歌っていた歌の一つがかの名曲、刃傷松の廊下(真山一郎)でした。背広を脱いでネクタイを外し、革靴をひっくり返して頭に載せてネクタイで結びつけると(酔った状態では)烏帽子姿に見えます。

そろそろ今年も“討入”の季節がやってきましたが、世間は赤穂浪士をちやほやするものの、被害者である吉良家はなかなか注目しません。

冒頭、『勅使下向の春彌生…』と歌い出すわけですが、元禄十三年(1701)三月十四日、浅野長矩は吉良上野介(義央)に切りかかり、頭に深い傷を負わせます。

皆さんご存知の通り、本事件は前段の殺人未遂事件と1年9か月後の殺人事件から構成されてますが、前段では殿中で切りかかった長矩は(加害者)即日切腹、吉良(被害者)には当然ながら処分は下されてません。


しかし、後段の討入では、浪士達(加害者側)の切腹は当然として、上野介在宅時に父を救うべく戦った息子の義周は大怪我を負った被害者であるにも係わらず改易となり、高島藩に預けられ3年後に亡くなります。戦いはしたものの切り伏せられて意識不明状態で見つかった為、武士として鍛錬不足(仕方不届)であるという理屈であり、こじつけ満載の処分でした。

当時世論も含めて浪士への同情論が幕府(将軍綱吉)の判断に大きく影響した様です。違法とはいえ仇討ちは場所と手段を選べば合法な世の中で、武士の忠誠心を尊びたい儒学者と勧善懲悪に飢えている庶民にとってはフェアな処分だったのでしょう。

 

吉良氏は足利一門の名門中の名門であり、鎌倉時代に足利家3代義氏の庶長子から始まる家で、吉良荘に地頭で赴任して以来三河に土着しましたので、松平氏との関係も深く高家旗本として徳川幕府からも丁重に扱われていました。上杉家(米沢藩)跡取り問題(4代綱勝の急死)が起こった時に吉良上野介の息子(綱憲)が養子となります。綱憲の母は上杉定勝(3代藩主)の娘であり、母系ながら上杉氏の血統は続きます。本来世継がいないと米沢藩はお取り潰しでしたが、綱勝の舅、保科正之(会津藩)が奔走し30万石を15万石に減封する処分で藩の存続が図られました。ところが上野介も養子を確保する必要がある事から、今度は綱憲の次男である義周を吉良家にもらい受け、上述赤穂事件に巻き込まれました。 


赤穂浪士事件に関わる本は結構多く、特に吉良上野介の人間性に関わる評判は分かれます。残っている複数の当時の日記等からは風評通りいじわるだった様ですが、更なる事実としては上杉家から吉良家への経済支援(借金の肩代わりや資金援助)が高額で、家名存続の為協力してくれた恩の対価のようなものが有り、経済状態が厳しい上杉家の財政を更に追い詰めていた様です。義周が亡くなり高家吉良家は断絶しますが、米沢藩としてはほっとしたかもしれません。 


義周の妹、豊姫は黒田家(筑前福岡藩支藩)に嫁ぎ、その娘は秋月家(日向飫肥藩)に嫁ぎ、同家から上杉治憲(鷹山)が養子として上杉家を継ぎます。鷹山が養家を継いだ時、米沢藩は20万両の借金があり、これは藩の年間収入の6倍だったそうですが、亡くなるまでに約60年で返済したそうです。

赤穂事件から100年を経、鷹山が見事に先祖の汚名挽回をしたと言えるでしょうか。

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