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武士の北海道開拓


ロシアの南下政策に伴う北海道警備の要請は19世紀に入り益々高まり、幕府は東北諸藩に沿岸警備地や領地を割り当てて対応しました。白老には当時の仙台藩の陣地が残っています。幕末の混乱期、奥羽越列藩同盟への去就に分かれた各藩は本土に戻り、戊辰戦争が起こります。敗者の中では会津が28万石から斗南藩3万石に減らされ辛酸をなめた事は有名ですが、仙台藩も62万石から28万石へと減封されました。

亘理伊達家は政宗の叔父実元を祖する仙台藩次席の名門であり2万3千石を領しましたが、領地は南部藩に帰属する事となり、領主邦成は僅か58石をもらい仙台の屋敷に蟄居する事となり家臣達は帰農し、南部藩領民にならざるを得ない状況でした。明治二年、明治政府は北海道開拓を促すべく“分領支配”を認める制度を導入し、藩・士族・庶民を対象に志願制で団体・個人を問わず土地が分与されました。予算の無い明治政府は、手弁当で入植してもらい開拓を加速させると共に、北海道防衛の藩屏を担ってもらう事が狙いでした。


亘理伊達家は、殿様(邦成公)と家族以下家臣の多くが洞爺湖の麓有珠郡(現伊達市)に入植し“新藩”を立ち上げようとしました。しかし廃藩置県により本制度は僅か2年で廃止となり、北海道は全土開拓使(政府機関)の管轄下となりました。同時に朝敵だった伊達家士族は平民籍とされ経済基盤だけではなく、名誉も失う事となります。その後政府の過酷な仕打ちと厳しい生活環境に耐えながら新天地に拠点を築いた結果、明治十八年邦成公は家臣と共に士族に復帰、同二十五年に男爵となりました。昆孫(6代孫)は2018年ミスワールドに選ばれた伊達佳奈子さんです。


鳥取藩池田家は家康の外孫の家系で幕藩体制下では准親藩として厚遇され、戊辰戦争でも官軍につき上手く立ち回ってきました。しかし目立った産業が無く、農業主体の同藩では特に維新後士族は困窮し、明治十七年を皮切りに士族の北海道開拓移住が始まりました。入居地は現在釧路市の阿寒川両岸付近にあり鳥取村と名付けられましたが、長らく川の氾濫に苦しめられました。鳥取町は戦後釧路市と合併しましたが、同地区は通りや学校、神社に至るまですべて名前が鳥取づくしであり、鳥取神社は明治二十四年出雲大社に請願し、大国主命を分祀してもらい今に至ってます。

次回釧路に行く機会あれば、是非神社に詣でた後海鮮丼を楽しみたいものです。因みにこちらの御殿様、池田仲博侯爵(徳川慶喜公の息子で養子)は十勝に大きな農場を開き、現地は池田町という地名になってます。

故郷は遠きにありて想うもの - 現在亘理町と伊達市、鳥取市と釧路市は姉妹都市になり交流が続いてます。

因みに私の故郷、加賀藩は上述明治政府の気まぐれな分領支配制度では、北海道北端の宗谷・礼文地域をもらったようですが、一年も経たずに手放したようです。


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