

破竹の快進撃はここから始まった 新田義貞と少し志村けん ~ JUL, 2026 東村山~
元弘三年(1333年)五月八日新田義貞は生品神社(群馬県太田市)で挙兵、五月二十二日東勝寺において北条氏を滅ぼし鎌倉幕府を打倒しました。たった2週間で四度合戦し、その間およそ130kmを駆け抜けました。 新田軍は旗揚げ時僅か150騎ばかりでしたが、越後・甲斐・信濃の源氏郎党が加わり、利根川を超えて足利高(尊)氏の長男“千寿丸”が軍に加わると更に陣営は増えました。鎌倉幕府は新田討伐軍を急遽編成し鎌倉街道を北上させましたが、結局新田義貞の鎌倉侵攻を許す事となりました。緒戦の2回は小手指原と久米川で行われたもので、現在所沢市と東村山市に跨る地域にあたります。 幕府を実質的に束ねる北条高時は、義貞挙兵の報が出た段階では本件がどこまで深刻なものかは理解できていなかったのかもしれません。2度の敗戦の報を受け、多摩川を鎌倉防衛の死守線として弟の北条泰家に大軍を授け、分倍河原で新田軍を迎え撃ちました。この3回目の分倍河原の戦いが事実上の決戦であり、大軍を擁した泰家は当初優位に戦いを進めましたが、結局義貞に止めを刺すことが出来ずに逆転負けを喫しました。
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一字姓のドラマ ~伴さん、長さん、高さん~
日本の姓は漢字二字のものが多く、偶に一字姓が出てくると由来を調べたくなります。もっとも日本人の多くが何れかの姓に由来するとされる源平藤橘の内三つは一字姓ですし、森さん、谷さん、原さん等巷間一字姓は溢れており、それほど拘るテーマでは無いのかもしれません。 一方で、元々二字・三字の姓だったものが一字になったケースがあります。奈良時代に家持を始め公卿を輩出した大伴氏は、淳和天皇の諱(いみな、本名だが生前使う事を忌むもの)が大伴であった事からこれを忌避し、伴氏を名乗る事となりました。それから数十年後伴氏は応天門の変で失脚し、古代ヤマト王権から続く名門が零落するきっかけとなりました。国宝の「伴大納言絵詞」を見られた方は多いと思いますが、本作品は事件の300年後に後白河法皇が作成させたと考えられています。 公家としては零落しましたが、大隅の戦国大名として一時期島津氏と覇を競った肝付氏は伴氏の末裔を名乗りました。地方官として薩摩に下向しその後現地に土着したそうですが、頼朝や鎌倉幕府から地頭に任命されて土着した島津氏や伊東氏よりはかなり古い現地領主になりま
6月18日読了時間: 4分


家督は兄にお還し申す ~水戸黄門と畠山満慶~
古今東西家督相続の揉め事は数多く有りますが、長幼の序を重んじ弟から兄又は兄の子供に家督を還したのは水戸光圀と畠山満慶でした。 水戸黄門の放映が終了して久しいですね。放送開始は昭和44年だそうで40年以上も続いた長寿番組ですが、日本人の多く・・・特に当時のお父さん達は月曜の晩酌の御供でテレビを観て、印籠を出すシーンで溜飲を下げてました。週の始めは静かに勧善懲悪を楽しむのがいいと思いますが、リメイク再開を期待するのは自分だけではないでしょう。 水戸藩は徳川御三家の末弟、家康の11男頼房公が始祖で、光圀公は2代藩主となりますが次男になります。兄の頼重とは6歳違いで二人とも同じ母親(久昌院)から出生しました。兄は父頼房が堕胎を命じた為に家臣が公家の滋野井家で匿い、後年認知される事となります。 堕胎を命じた背景は、尾張・紀伊両藩を構える兄達(徳川義直、頼宣)に未だ世嗣が出来ない中で、末弟の自分が先に授かるのは宜しくないとの思慮が働いたものとされてます。六年後に生まれた光圀が生まれた際には既に尾張藩・紀伊藩には世嗣が誕生していましたが、再び頼房は堕胎を
6月12日読了時間: 4分






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