

家督は兄にお還し申す ~水戸黄門と畠山満慶~
古今東西家督相続の揉め事は数多く有りますが、長幼の序を重んじ弟から兄又は兄の子供に家督を還したのは水戸光圀と畠山満慶でした。 水戸黄門の放映が終了して久しいですね。放送開始は昭和44年だそうで40年以上も続いた長寿番組ですが、日本人の多く・・・特に当時のお父さん達は月曜の晩酌の御供でテレビを観て、印籠を出すシーンで溜飲を下げてました。週の始めは静かに勧善懲悪を楽しむのがいいと思いますが、リメイク再開を期待するのは自分だけではないでしょう。 水戸藩は徳川御三家の末弟、家康の11男頼房公が始祖で、光圀公は2代藩主となりますが次男になります。兄の頼重とは6歳違いで二人とも同じ母親(久昌院)から出生しました。兄は父頼房が堕胎を命じた為に家臣が公家の滋野井家で匿い、後年認知される事となります。 堕胎を命じた背景は、尾張・紀伊両藩を構える兄達(徳川義直、頼宣)に未だ世嗣が出来ない中で、末弟の自分が先に授かるのは宜しくないとの思慮が働いたものとされてます。六年後に生まれた光圀が生まれた際には既に尾張藩・紀伊藩には世嗣が誕生していましたが、再び頼房は堕胎を
1 日前読了時間: 4分


西山逍遥 ~ 京都 MAY,2026 ~
今回は桂川の西側を回遊しようと思い、長年行きたかった西芳寺(苔寺)を予約しました。大きな前線が近づいているとかで、晴れているうちに眺望のいい場所に行こうと探しましたが善峯寺が一番いいようです。東山では将軍塚古墳からの眺めが一番でしたが、ここからは逆方向で京都盆地を眺めることになり、正面に比叡山の稜線が連なります。 桓武天皇は平城京から平安京に遷都する間に、桂川の手前で一旦長岡京を造営しました。西山周辺にはこの長岡京遷都に際し造立された寺社も残っており、又それ以前には外来系である秦氏の植民地域でもあった事から多くの伝承・由来が錯綜してます。 西芳寺の由来は聖徳太子の別荘跡に遡ると言われています。桂川を超えた嵯峨野の入り口には秦氏の名前を採る太秦(うずまさ)があり、太子開基の広隆寺や蛇塚古墳もあり、嵯峨野から西山にかけて秦氏の支配領域だった事が想像できます。 70年代から参詣は完全予約制になっており、従来はハガキで申し込むスタイルだった為に敷居が高く訪れる機会が有りませんでした。最近WEB予約が可能になり、嬉しくなって何回来れるのか保障も無
5月22日読了時間: 7分


ヤマトの北限 秋田 ~MAY,2026~
秋田市郊外にある大森山展望台は僅か標高124mの低山の頂に有りますが、北は男鹿半島から秋田市内を一望できます。南方向には遥か雪を頂く鳥海山を臨み、大パノラマを楽しめますがそれだけ雄物川が開いた沖積平野が広いという事でしょう。 関ヶ原の戦いの後に秋田への転封を命ぜられた佐竹義宣は、京から水戸に寄らず直接新任地に向かいました。明らかな左遷で不本意だったと思いますが、湯沢の峠を越えて肥沃な土地を見て“ご機嫌が治った”事から御機嫌坂と名付けられたそうです。 日本書紀では崇神天皇が四人の皇族を将軍に任じ、東海・西海・高志(越)・丹波を征服させたとあり、この内北陸道に兵を進めたのが大彦命(おおひこのみこと)で崇神帝の伯父にあたります。以来ヤマト朝廷は奈良時代まで北への領土拡大を目指し天平五年(733年)に秋田城を築きました。 近くの古四王神社には武甕槌神(タケミカヅチ)と大彦命が祀られてます。前者は国譲りの直談判をし神武東征にも貢献した鹿島神宮の主祭神、後者は実際には新潟県北部くらいまでは来たと思われる日本海側征服のヒーローです。社伝では当社は7世紀に
5月16日読了時間: 7分






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