

光秀は京に向かった 丹波の入り口亀岡から園部へ ~ APR,2026 ~
丹波亀山は、明治になり亀山という地名が全国で多くて紛らわしいとの理由で亀岡に変えられたそうです。山から岡に代わったくらいでたいした変更ではないかもしれませんが、丹波亀山城という響きで本能寺の変を連想してしまう戦国ファンの方には違和感は残ると思います。丹波の国は京都府と兵庫県に跨る横長の長方形で、亀岡は京の入り口にあたり京都駅から各駅停車で30分弱で着きます。 保津川下りの死亡事故が起きたのは丁度3年前になります。亀岡駅近くの渡船場から2時間くらいかけ嵐山の渡月橋近辺に向かうものですが、この急流を船で移動できるようにしたのは江戸初期に活躍した角倉了以でした。彼は人工運河の高瀬川も造り、瀬田川も整備し京を中心とした水運物流に多大な貢献をしました。因みに保津川は嵐山に入ると大堰川(おおいがわ)と呼ばれ、その後桂川となり鴨川と合流し淀川に流れこみます。 今回亀岡の訪問地を地図で確認していた際、古代由来の神社・寺院はすべて盆地を取り巻く高台に並んでいる事に気づきましたが、古代は大きな湖(丹波湖)が有ったようです。大きな盆地は南寄りの市街地を除き長閑な
8 時間前読了時間: 9分


熊本地震から十年 ~ MAR,2026 ~
東北大震災から15年、熊本地震から10年、能登地震から2年が経過しました。今世紀に入り震度7が観測された地震はこれらに加えて中越地震や北海道全域が停電した胆振東部地震もあり、我が国は5年に1度の頻度で大地震が起こっている事になります。風水害も併せ日本の災害復旧コストは莫大ですが、防衛力や医療制度もしかり平和な暮らしを実現する為には健全な労働力と経済力を維持していく重要性を改めて感じます。 熊本城ではまだ多くのエリアで石垣が崩れ、復旧工事が継続しています。天守閣は復元されたものの西南戦争を耐えた宇土櫓は解体修理中で未だ6年程復旧に要する見込みです。 それにしても熊本は江戸期の大半を統治した細川家より、加藤清正の人気が強いです。清正が秀吉より肥後北半国19万5千石を拝領したのが天正十六年(1588年)、息子の忠広が改易となったのが寛永九年(1632年)でしたので加藤家の治世は僅か44年間でした。前任の佐々成政が国人一揆を起こし改易された後の赴任でやりにくかったでしょうが、氾濫の多かった白川の治水や灌漑設備の普及で国力を増やし、熊本城と城下町を築
3月13日読了時間: 8分


志摩の国 ~FEB,2026~
十世紀に纏められた延喜式では、律令体制下で置かれた六十余州の国々をその国力に応じて大・上・中・下と4つのランクに分類しました。志摩は9つ指定された下国の一つで、2郡しかない小さな半島であり平地が少なく農業生産性に乏しい地域です。一方古来、若狭・淡路と並び朝廷に海産物を納める“御食国”(みけつくに)として重視されてきました。船舶交通の難所が続く海沿いには要所毎に灯台が並びます。安乗埼灯台は半島の海岸線の中点に有り、そこは志摩を二分する的矢湾の入り口でもあります。 昨夏人生初のお伊勢詣りで賢島に逗留しましたが、伊勢湾道経由ぐるりと迂回し志摩に向かい片道500km余りのドライブになりました。今回はちと趣向を変えて、渥美半島の先端にある伊良湖岬から車載フェリーで鳥羽に向かいしました。一時間ぐらいの船旅ですが、伊勢湾入口の島々を眺めながらお弁当を食べるもよし昼寝もよし、リラックスできる時間です。 途中で島の案内がアナウンスされます。伊良湖を出て間もなく見える神島は三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台とのこと。調べてみたら何と5回も映画化されて何れも島がロケ
2月28日読了時間: 5分






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