

日光の世界遺産 ~ AUG,2026 ~
日光には三つの主要街道(日光街道、例幣使街道、会津西街道)が乗り入れてますが、その結節点に当たるのが今市です。何れの街道も17世紀に植樹された杉並木で整備されてましたが今でも2・3割残されて居り、その威容から江戸幕府が如何ほどこれらの街道を重視していたかがわかります。例幣使街道は朝廷から東照宮の例大祭に毎年派遣された使節が利用した道で中山道経由高崎から分かれて日光に繋がります。車でしばし厳かな並木道を楽しませてもらいました。 日光街道と例幣使街道が合流する地点に追分不動尊があり、3m近くの石造地蔵が安置されてます。近くを流れる大谷川の洪水で上流から流された石で造られたものとのこと。 大谷川の対岸には会津若松と今市を結ぶ下野街道(会津西街道)の起点もあり、保科正之は参勤交代途上で7回日光に参詣したそうです。 先日訪れた会津では下野街道を車で走りましたが、正之にとって日光は祖父(家康)が祀られる東照宮があるだけではなく、自分を一門として世に出し遇してくれた異母兄の家光の菩提(大猷院)も有り、とても素通り出来なかったことでしょう。 ...
5 時間前読了時間: 6分


会津スタコラ紀行 ~AUG,2026~
会津には近年出張で来る機会は度々有りました。限られた時間の中では取り合えず鶴ヶ城の美しい石垣を愛でるくらいでしたので、今般会津盆地を一通り巡ってみる事にしました。鶴ヶ城には行きませんでしたが、飯盛山にある白虎隊自裁の地から城を眺めました。 新潟県の巨大河川のうち、阿賀野川(福島県内では阿賀川)は会津を取り囲む山々から集まった河川が広く盆地を潤しながら新潟県境を超えていくもので、会津の豊穣を担保してきました。源流の一つは猪苗代湖からのものですが、明治に入り降水量が少ない安積方面(郡山地域)に同湖から安積疎水が引かれ農業生産量が格段に増加しました。米沢・山形も潤沢な水系(最上川)に恵まれましたが、こうした豊かな盆地を拠点に最上・伊達・芦名といった有力な戦国大名が輩出されました。 古事記には当地は『相津』と書かれており、崇神天皇が国内四方面に皇族を派遣した四道将軍の記事に載ってます。北陸道を東進した大彦命(おおひこのみこと)と東海道を東上した建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)が合流した地点であり、両将軍を主神とする伊佐須美神社が鎮座されてます。
8月8日読了時間: 9分


父には及ばず 長篠城と設楽原 ~ JUL,2026 ~
東三河を縦に流れる豊川は宇連川(うれがわ)と合流した後、西に向きを変え三河湾に注ぎます。長篠城はこの二川の合流点に築かれたもので、500人の兵で1万5千の武田軍の猛攻を防ぎました。徳川家康と織田信長連合軍3万8千はその報を受け救援に駆け付け、武田勝頼は決戦を選び設楽原で会戦となりました。歴史にifはつきものですが勝頼が自重し国境を固め国力を養っていれば、織田家は武田・上杉のプレッシャーを受けつつ本能寺の変を迎えていたかもしれません。 本丸跡の平地はせいぜい100m四方でしょうか。その他縄張りを概観しても城兵が500人という規模は納得できます。二つの川が囲む数十メートルの断崖は攻城容易ではなく、武田軍は強襲策を控え複数の砦で囲み、兵糧攻めで或る程度時間をかける意図だったようです。 断崖の反対側は丘陵地帯で、大通寺に馬場信春をはじめとする有力諸将が布陣しました。長篠城を見下ろし、川の対岸にある自軍砦との連絡も取りやすい場所です。 信玄が育てた古参諸将は、信長・家康連合軍の到来に際し勝頼に撤収を献策しましたが拒否され、出撃前に別れの盃を井戸水で交わし
7月25日読了時間: 7分






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