

会津スタコラ紀行 ~AUG,2026~
会津には近年出張で来る機会は度々有りました。限られた時間の中では取り合えず鶴ヶ城の美しい石垣を愛でるくらいでしたので、今般会津盆地を一通り巡ってみる事にしました。鶴ヶ城には行きませんでしたが、飯盛山にある白虎隊自裁の地から城を眺めました。 新潟県の巨大河川のうち、阿賀野川(福島県内では阿賀川)は会津を取り囲む山々から集まった河川が広く盆地を潤しながら新潟県境を超えていくもので、会津の豊穣を担保してきました。源流の一つは猪苗代湖からのものですが、明治に入り降水量が少ない安積方面(郡山地域)に同湖から安積疎水が引かれ農業生産量が格段に増加しました。米沢・山形も潤沢な水系(最上川)に恵まれましたが、こうした豊かな盆地を拠点に最上・伊達・芦名といった有力な戦国大名が輩出されました。 古事記には当地は『相津』と書かれてますが、崇神天皇が国内四方面に皇族を派遣した四道将軍の記事に載ってます。北陸道を東進した大彦命(おおひこのみこと)と東海道を東上した建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)が合流した地点であり、両将軍を主神とする伊佐須美神社が鎮座されてます
25 分前読了時間: 9分


父には及ばず 長篠城と設楽原 ~ JUL,2026 ~
東三河を縦に流れる豊川は宇連川(うれがわ)と合流した後、西に向きを変え三河湾に注ぎます。長篠城はこの二川の合流点に築かれたもので、500人の兵で1万5千の武田軍の猛攻を防ぎました。徳川家康と織田信長連合軍3万8千はその報を受け救援に駆け付け、武田勝頼は決戦を選び設楽原で会戦となりました。歴史にifはつきものですが勝頼が自重し国境を固め国力を養っていれば、織田家は武田・上杉のプレッシャーを受けつつ本能寺の変を迎えていたかもしれません。 本丸跡の平地はせいぜい100m四方でしょうか。その他縄張りを概観しても城兵が500人という規模は納得できます。二つの川が囲む数十メートルの断崖は攻城容易ではなく、武田軍は強襲策を控え複数の砦で囲み、兵糧攻めで或る程度時間をかける意図だったようです。 断崖の反対側は丘陵地帯で、大通寺に馬場信春をはじめとする有力諸将が布陣しました。長篠城を見下ろし、川の対岸にある自軍砦との連絡も取りやすい場所です。 信玄が育てた古参諸将は、信長・家康連合軍の到来に際し勝頼に撤収を献策しましたが拒否され、出撃前に別れの盃を井戸水で交わし
7月25日読了時間: 7分


佐竹はここから始まった 常陸太田 ~ JUL,2026 ~
関東平野は広いですが、茨城県北部まで来ると阿武隈山系から連なる山々が迫ります。佐竹は源氏出身ながら源平合戦ではなかなか頼朝に服従せず、西金砂山(にしかなさやま)の山上に籠り頑強に抵抗しました。最後は味方の裏切りで落城しましたが、その後奥州合戦で活躍し鎌倉幕府体制に組み込まれていきます。現在城跡には西金砂神社が置かれ、四百メートル強の山ですが急峻な坂道を上った山上の本殿からは常陸北部の山々の眺望が楽しめます。 この城は長らく佐竹氏にとって、詰城として維持されました。本城の太田城が優勢な敵に囲まれた時に籠城するための城になります。 佐竹氏の家紋は扇に月が配われてますが、奥州合戦時に頼朝と同じ白旗(源氏を示す)を掲げて紛らわしいとのことで、頼朝から白旗の上に扇を掲げるように言われたのが始まりだそうです。5月に秋田市を回遊し江戸期の佐竹の旧跡を回りましたが、佐竹を理解するには片手落ちだと感じ今回発祥の地を訪れました。関ヶ原の戦い(1600年)で徳川家康により秋田への転封を命ぜられましたが、常陸を領していたのは470年間であり江戸時代の270年間より
7月12日読了時間: 7分






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