

西伯旅記@米子 ~OCT,2025~
大山は大凡2万年前に噴火をして以来静かで休火山のカテゴリーに入ってます。鳥取県西部に来ると何処からでも拝める名峰ですが、山体は噴火による崩壊や地下からの溶岩ドームにより複雑な形をしており、見る角度で全く異なる姿を見せてくれます。桝水高原から見上げると双子の山のように見えます。 米子城の頂きからは広い裾野を従える堂々としたコニーデ火山のようで、米子の人達は日々この姿を仰いでいます。 ゴルフ場では完全に富士山に見えました。富士山麓のゴルフ場もそうですが、芝目がきつくグリーンの傾斜はわかりづらく、ボールは意図せざるスピードと方向で転がっていきます。前日大神山神社と大山寺にお詣りしましたが、信心が足りなかったのかもしれません。 鳥取県の西部は伯耆の国であり、その中心は広く大山の山域で覆われてます。奈良時代に編まれた出雲国風土記には国引き神話が載せられており、大山と島根県の三瓶山から沖合の細長い島を引っ張り引き寄せたのが島根半島だそうです。弓ヶ浜はその時に引っ張った綱の名残りらしいですが、この有名な砂嘴は強い沿岸流によってもたらされたもので風土記が
16 時間前読了時間: 6分


秋の大和路(今年は山の辺の道) ~OCT,2025~
山の辺の道は日本最古の官道と言われており、奈良盆地の東南辺の山際に沿って敷かれてます。ちょっと高台にある理由は、古墳時代に奈良盆地の多くは湿地帯や沼地だった為であり、更に遡れば縄文期は湖だった事によります。道沿いにある古墳や神社は当地がヤマトの国の発祥地であった事を物語っており、紀記の逸話を重ねながら歩くと楽しいです。眼下には大和盆地が拡がり、その先には生駒・金剛の山々が連なります。 今回は卑弥呼の墓ではないかと期待されている箸墓古墳(はしはかこふん)を先ずは訪れました。全長278mの前方後円墳で三世紀半ばから後半の築造と見られています。昨今は発掘された土師器、埴輪の形状、木材から炭素14年代測定法による年代アプローチが盛んであり、前方後円墳の時代別の形状からも築造年代は絞られてきました。 宮内庁は当該墓は第七代孝霊天皇皇女「倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)」の墓としてますが、日本書紀では彼女の夫は大物主神(おおものぬしのみこと)、即ちヤマト王権に国譲りをした出雲の神様であり、三輪山を神体として大神神社(おおみわじんじゃ
10月17日読了時間: 6分


興福寺北円堂の運慶仏(東京国立博物館特別展) ~OCT,2025~
興福寺はそもそも藤原氏の氏寺であり、奈良時代から平安時代初期にかけて百年余りを要し造られた大伽藍でした。中でも北円堂は一番最初の建造物であり、奈良時代初期(養老年間)に藤原不比等の慰霊の為に建てられましたが、意外にも天平期の法隆寺夢殿よりも古い八角堂です。 ...
10月8日読了時間: 4分






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